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藍色のオアシス 十歳のころ、わたしたちはオアシスを目指していた。 それはわたしたちの住む街からどれほど離れているのか、歩いてどれぐらいかかるのか、まるで検討もつかない遥か遠くの場所にあった。そこに行くまでの経路を、わたしたちは知らなかった。わたしたちには地図すらなかったし、十分な金もなかった。ふたり分の、ありったけの小遣いを合わせたって、それはたったの千円にすら満たなかった。 それでもわたしたちは、履き潰したスニーカーに、細い両足を突っ込んで出かけた。いつも小学校へ行くのとは正反対の道を歩いた。金がなかったから、電車やバスは使わなかった。ただ、ひたすらどこへ続いているのかも分からない道を歩き続けるだけだった。疲れてくると歌をうたった。それは当時流行っていた陽気なJ−POPで、何かとつけて早熟なキナコが夢中になっていたアイドルグループの曲だった。 今思い返すと、その曲の歌詞の中に、オアシスという不可解な単語が入っていたから、わたしたちは出かけたのだ。キナコはそのころから、まったく怖いもの知らずの女の子だった。だから、だんだんと日が暮れて、飴だけで膨らませた腹もいい加減すいてきて、わたしが暗く冷えた空気に脅え始めたときでも、キナコは実に平然としていた。どうしてそんなに怖がるのよ、とキナコはわたしの手を握っていった。 「楽しくなきゃ、オアシスはみつからないんだよ。ねえ、いこうよ。ミツ」 そして、わたしたちは自転車置き場の隅で眠った。ふたりで小さく丸まると、わたしたちの体は自転車ひとつの影に隠れた。わたしは夢の中でオアシスを見た。わたしは現実にはオアシスという名のつくものを見たことがなかったけれど、わたしの夢は確かに、そこに溢れ出す清純な水を描いていた。夢の中のわたしは、オアシスの匂いを嗅いだ。オアシスの水を触った。そして、キナコ、と彼女の名前を呼んだ。キナコ、オアシス、あったよ。みつかったよ、ねえ。 ――そうして、夢から覚めると、わたしたちは交番のベッドの中にいた。夢はそこでびりびりと音を立てて破れた。目の前にはわたしとキナコの両親がいて、彼らは心配と怒りを混ぜ合わせたような顔で、そこに突っ立っていた。彼らの水は乾いていた。しぼりきったレモンのような声で、彼らはばか、と口をそろえていった。ばか、キナコ。ばか、ミツ。そして、彼らは目から海水みたいな雫をたらした。 わたしたちはそうして、日常に戻り、オアシスを忘れた。 それから十年が経った今、わたしたちは再びオアシスを思い出そうとしている。 きっかけは、東京の短大に進んで疎遠になったキナコと久々に会ったとき、彼女が見せてくれた写真だった。それはオアシスの写真だ。偽物ではなく、本物のオアシスだ。うっそうと生い茂る緑の中に、透き通るような水の溜まった池があって、その隣にひとりの男性が立っている。彼は実にやりにくそうな笑顔で写っていた。まるでオアシスと自分とが、同じ写真の中に収まることに対して、ほとほと呆れているみたいに。 「彼はわたしのいとこよ」と、キナコはいった。「彼は、実際にオアシスへ行ったんだって。アフリカの砂漠にある、正しいオアシスに」 わたしはまた、その写真を食い入るように見つめた。これが正しいオアシスなのだ、とわたしは思った。それは決して幻ではなかった。想像でもなかった。十歳のわたしたちが、ひたすらに追い求めていたオアシスは、こんなにちっぽけな写真の中に存在していたのだ。わたしは初めて正確なオアシスを見て、ひどく興奮した。写真の中の男を、恨めしいとまで感じた。 しかし、その興奮はキナコにとっても同じだったようだ。キナコはひとしきり、わたしがその写真を眺めるのを待ってから、にこりと昔から変わらない笑みを見せていった。 「ねえ、ミツ。わたしたちも、ここ、いこうよ」 キナコは二十歳になっても相変わらず、先のことが見えない性格だった。けれど優柔不断なわたしは、キナコのそうした決断的なところを気に入っていたし、そしてなにしろ、わたしはオアシスが見たかった。十年前に失ったものを、わたしはもう一度手に入れたい。わたしは喉から手が出るほど、オアシスが欲しい。だからわたしはキナコの提案に、即決で頷いた。資金や都合の心配は、わたしにとってオアシスの魅力にはとても及ばないものだった。 そして、その計画はすぐに実行に移されることになる。幸いなことに、わたしたちは夏休みを目前にしていたから、大学が休校になるのと同時に、すぐアフリカへ向けて旅立つことができた。わたしは親から金を借りて、なんとか旅費を工面した。オアシスを見に行くの、とわたしがいっても、家族や友人は首をかしげるばかりだった。恐らく過去にオアシスを目指した者以外には、オアシスの圧倒的な魅力は伝わらないのだ。かわいそうなことに。わたしは、オアシスを求めた昔の自分を誇らしく思った。 アフリカまで、わたしたちは数本の飛行機を乗り継いで向かった。ほとんど丸一日のフライトも、わたしたちには苦にならなかった。わたしたちは飛行機に乗っている間、ずっとアフリカの旅行雑誌を読んでいた。ほかのことはまったくどうでもよかった。周りの雑音も、口に含む機内食も、座席のすわり心地も、わたしたちの脳を刺激することはなかった。 無事にアフリカ大陸に到着すると、わたしたちはとりあえず、機内での疲れを癒すためにホテルで休んだ。ツアーの予定によれば、わたしたちは翌日、さっそくオアシスを観光することになっていた。明日、オアシスをこの目で見られるのだと思うと、わたしは舞い上がって夜も眠れなかった。アフリカの空気はじっとりと湿っていて、その触れ慣れない気候はわたしの緊張を高めるのには十分だった。 「十年前、わたしたちは」隣のベッドで、キナコがいった。「……どうして、オアシスが見たかったのかな」 「あれは、キナコが提案したんだよ。わたしじゃない」 「わたしはただ、夢を見たのよ。十歳のわたしは、ある日突然、オアシスにたどり着く夢を見たの。砂漠の中を歩いている夢とか、オアシスを見に行こうと決心する夢とか、そういったものは、後にも先にも一切見なかった。ただ、わたしは、オアシスだけを見たの。歩いてきた過去はないけれど、確かに、オアシスにたどり着く、その瞬間の、夢を見たのよ」 キナコはそう語ってから、すやすやと穏やかな寝息を立て始めた。わたしは彼女が眠ってしまったあとも、しばらくは目がさえていた。わたしは十歳のころ、自転車置き場の隅で見た夢のことを、そのとき唐突に思い出した。それは今まで忘れてしまっていた、過去に捨てられた夢だった。それはオアシスの夢だ。それは、オアシスにたどり着く夢だ。 わたしは知らずのうちに、キナコと同じ夢を見ていたのだ。そのことに気付いてしまうと、わたしの胸の中で、何か薄黒いものがぐるり、と回った。わたしは奇妙なことに、キナコにオアシスを奪われてしまうのではないかという恐ろしい危機感を抱いた。わたしの中で、わたしたちのものであったオアシスは、いつの間にか、わたしだけのオアシスへと変わっていたのだ。 けれど行動力の鈍いわたしは、今更この状況をどうすることもできず、ただぐずぐずと悩みながら朝を迎えた。わたしたちは軽い朝食をとり、日本語をしゃべるツアーの案内人に連れられて砂漠を歩いた。二時間ぐらいでたどり着ける、一番近いオアシスへ行くのだと案内人は行った。わたしたちは十分な水と装備をしていたけれど、歩いているうちに、だんだんと体力が消耗していった。日本ではありえないほどの強烈な日射は、わたしの水を根こそぎしぼり取っていくようだった。 疲れますね、とキナコがいうと、案内人は笑った。それでこそオアシスの本来の魅力が分かるのです、と彼はいった。わたしたちは案内人の言葉に励まされ、また歩を進めた。オアシス、というひとつの象徴が、わたしたちを奮い立たせた。 やがて、案内人のいった通り、本当に二時間ぴったりでわたしたちはオアシスへとたどり着いた。砂漠の砂が、だんだんと微妙な緑色を帯びていき、やがて小さなジャングルへと変わっていく光景は実に美しかった。あまりにも、ひとつひとつの変化が小さすぎて、砂と緑の境目はほとんど意識できなかった。まるで時空間を移動するトンネルにでも入ったみたいに、わたしたちはすんなりと、緑の中に溶け込んだ。 その小さなジャングルの、ほとんど中心の位置に、オアシスはくっきりと存在していた。それは半径二十メートルほどの楕円形で、三メートルぐらいの水底は透けて見えた。強い日光に反射して、きらきらと光る水面は、眩しすぎて目を細めなければ見ることが難しかった。生き物はなく、虫すらもいなかった。ただ小さな葉っぱたちが、水面をゆらゆらと、楽しそうに泳いでいた。 わたしたちはオアシスのほとりに立って、しばらくその景色を見つめていた。キナコがかばんから写真を取り出して、目の前のオアシスと写真の中のオアシスとを見比べた。それから、キナコは頷く。これが、オアシス、と彼女はいう。わたしは、その瞬間に悟った――わたしたちは、完全なオアシスへと、ようやくたどり着いたのだ。大よそ、十年の月日をかけて。 水を飲んでみてもいいか、と案内人に訊くと、彼はこっくりと頷いた。わたしは両手でオアシスの水をすくう。それらは生ぬるく、わたしの手のひらを透明に染めた。口に含み、飲み込むと、水はわたしの喉元ですうと流れた。それはただの水というよりかは、まるで何かの聖水のように感じられた。こんなにも、味や匂いのない、ただ漠然とした水滴がこの世に存在したのだという事実に、わたしは驚き、同時に震えた。 そのあともわたしは何杯か、慈しむようにオアシスの水を飲んだ。横を見ると、キナコも何かにとりつかれたように、ただひたすらに水をすくっていた。案内人は、そんなわたしたちを、微笑ましく見守っていた。皆さん、いつもそんな調子ですよ、と彼はいった。オアシスは、人の心を清くするのです、ねえ、分かるでしょう。 わたしたちは互いに、ひとしきり水を飲み終えると、ようやく立ち上がった。わたしの体内にはオアシスが溜まり、キナコの体内にも、オアシスが蓄えられた。そしてわたしたちは見つめあった。わたしたちはどちらも、オアシスを体の中に持っていた。オアシスのあるわたしたちは、これまでのキナコとミツではなかった。わたしたちは体にオアシスを沈殿させることにより、オアシスを思い出したのだ。完全で、正確なオアシスを。 「オアシス、たどり着いたね」 「うん」 「でも、たぶん、わたしのオアシスと、ミツのオアシスは違う」 「どうして」 「同じ水であることは、問題じゃない。ただ、十年は長いのよ。十年のうちには、色々なことが変わってしまうの。わたしたちのオアシスも、例外ではない。昔は、不完全なひとつのオアシスだったものが、今この瞬間には、完全なふたつのオアシスになってしまったのよ。昔、夢の中で、オアシスは透明だったでしょう。そして、今目の前にあるオアシスも、確かに透き通っている。だからこれは、十年前の夢の続きなの。わたしたちは、あのときからまだ、果てしないオアシスの夢を見続けているのよ」 だから、わたしたちのオアシスは永遠に藍色なのよ、とキナコはいった。「完全なオアシスは、もう、二度と透明になることはないの。二度と、ね」 わたしは返事ができなかった。わたしは思わず、底の見えない、濁った藍色のオアシスを想像した。わたしたちは、そこにたどり着いたのだ、とわたしは思う。あるいは、わたしたちは、始めから藍色のオアシスを目指していたのだろうか。わたしは過去の自分に問いかける。けれど、わたしはもう、透明のオアシスを思い出すことができない。 わたしはまた、オアシスを忘れ始めている。そして、全てのオアシスは藍色に染まった。 fin (2009.08.10) |