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甘い海 「海が甘くなることって、あるかな」 砂糖菓子を摘みながら、僕の隣に座る明菜が言った。僕はしばしその言葉の意味について考えてから、答える。 「海が甘くなったら海じゃないよ」 「でも、海って塩が溶けたからしょっぱいんでしょ? 私、小さい頃に、海の水を舐めたことがある。塩辛くって、舌の上がひりひりするの。ちょっとだけ飲み込んだら、喉の気管が炎症でも起こしそうなぐらい、ひゅうって熱くなった。塩を混ぜたからああなったんでしょ、だったら、今度は砂糖を混ぜればいいんだ」 何の邪念もなく、本気でそう考えているのだろう。明菜はクマの形に作られた緻密な砂糖菓子を頭の方から齧り、その柔和な頬を緩めた。幼い頃から、明菜は甘いものが好きだった。だから、大学生になって大人の女性の色が濃く表れてきた今でも、明菜は誕生日ともなれば、当然のように大きなホールケーキを注文する。必ず、可愛らしい砂糖菓子が乗っかっているやつだ。 そして、明菜の誕生日になると必ず、「泰ちゃん、食べよう」と僕に誘いをかけてくるのも、いつものことだ。一歳年上の従兄弟である僕のことを、明菜はとても慕っている。普通は年の近い異性の従兄弟など、お互い恥ずかしがってあまり接点もないのだろうが、明菜の場合はその人懐っこさがでしゃばって、この年齢になってまでささやかな交流を続けていた。 まあ、そう誘われて、大学の帰りに明菜が一人暮らしをしているアパートにのこのこと寄ってしまう僕も、大概甘いのだけれど。たまたま同じ大学に通うことになったせいで、可愛い娘の一人暮らしを心配していた明菜の両親は、これ幸いとばかりに僕のことを頼ってきた。「明菜の世話をよろしく」と頭を下げられている手前、そう邪険には扱えない。それも、僕が明菜に甘い理由のうちだ。 「でもさ、海って広いぜ」僕は、フォークの先でクリームをすくって、口に運んだ。甘い。「そこらへんのお徳用で売ってる砂糖じゃ、間に合わないだろ」 「別に、海全部を甘くしようと思ってるわけじゃない。私が海に行ったとき、私の周りだけ甘くなってれば、それでいいんだよ。あれはおっきくて、うーんと広い食塩水の湖なんだから、ちょっとぐらい砂糖水に変えたところで、支障が出るとは思えない」 「世の中の当たり前な環境を、根こそぎ覆そうとするな」 叱咤すると、明菜はえへへと無邪気な笑いをみせた。「だって、甘い方が、楽しくない? おいしいじゃん。世の中の子供はさ、甘いものが好きなんだよ、泰ちゃん」 「カッコイイ男は、俗に甘いものが嫌いだって言うけどね」 「それは偏見です。泰ちゃんだって何気に、甘いの好きでしょ。いつも私に付き合ってくれるし、何だかんだいって完食してるし」明菜は、残り三分の一になった僕の皿のケーキを指差した。嘲笑されているような気がして、口の前までもってきていた手を、そのままぴくりと止める。半開きになったままの唇が、行き場もなく歪んだ。 「誘われたんだから、社交性に伴って食べてるだけだよ。特別好きってわけでもない」 「でも、嫌いじゃないんだよね」明菜はにやにやと不適に笑う。「じゃあ、好きなんだよ。嫌いじゃなきゃ、好きって言えばいいんだ」 「何で?」 「好きなものが多い方が、楽しいでしょ?」 その、どこか断定的な物言いに、僕は呆れるやら苦笑するやらで、「まあね」と適当に相槌を打つだけに終わった。これで、本当に大学生なのだろうか、と自問する。外ではもう少し、しっかりとした大人の貫禄を保っているのかもしれないが、身内である僕の前では、明菜は本当に幼く映る。ふっと少しだけ遠くから見つめてみれば、まだ小学生にも上がっていなかった頃、「たーちゃん」と舌足らずの声で笑いかけてきた明菜が、そのままの形で浮かんできそうだった。 「楽しい、ねえ」 僕は、いつまでも虚勢を張っていても仕方がないので、皿の上で微妙なバランスを保っているケーキを、一口に食した。咥内に広がる甘さが、軽やかな余韻を残していく。唇の端についたクリームを舌で舐めとってしまってから、少し子供っぽかったかな、とその動作を後悔した。一応年子だとしても、明菜の前では少しぐらい威厳をもちたい。明菜はそんな僕の心中を知ってか知らずか、「そう、楽しいの」と独特のリズムをつけて言う。 「海が甘くなったら、みんな、楽しくなれるんだよ」 なんの根拠があるんだ、と横槍を入れることは、なぜだかできなかった。明菜のその言葉は、まるでファンタジックなストーリーの台詞を読むように幻想的で、世の中の理屈なんて全く関係なく、明菜の世界の価値観だけの範囲で、断定できる文言なのだ。そこに、僕のこじつけのような反論を加えたとして、何のメリットがあるというのだろう。 「ねえ、泰ちゃん」明菜は食べ終わって空になった皿の前で、律儀に両手を合わせて「ごちそうさま」と口の中でもごもごと呟いてから、僕の方にくりくりとした丸い目を向けた。 「なに」 「泰ちゃんってさ、今付き合ってる人とか、いないの?」 あまりにも陽気な声で訊くので、始めは質問の意味がよく分からなかった。しかし、いくら何でも、お互い純情を突っ走る中学生というわけじゃない。こんなのは世間話の一つだ、と僕は自分に情けのない言い訳をしつつ、「いや」と首を横に振る。 「あれ、前の彼女サンはどうしわけ」 「とっくの昔に別れたよ。あいつは」僕は脳裏に、数ヶ月前まで交際していた同級生の顔を浮かべた。ルックスが悪いわけでも、性格が悪いわけでもなかった。ただ、「自分と、合わなかったんだ」 「ふうん」明菜は特別興味もなさそうに一度首をかしげて、泰ちゃんって案外理想が高いもんね、と皮肉った。なんとなく悔しくなって、僕はへらへらと笑う明菜に、その質問を返す。 「明菜は?」 「ていうか、自分の誕生日に従兄弟を呼ぶって時点で、気付いてほしいもんだけどなあ」ふん、と鼻を鳴らされる。「いたら、泰ちゃん、呼ばないって」 なるほど、僕が今日呼ばれたのは、恒例という理由と一緒に、彼氏のいない誕生日に一人でいるのは寂しいから、という意図も含めてのことらしい。いつの間にか、思う存分、僕は明菜に有効利用されているようだ。それは、解せないが。 「ねえ、泰ちゃん、こんな言葉知ってる?」 ソファの背にもたれてぐっと腰を沈めていた僕は、明菜の問いかけに「うん?」と首だけ動かして答える。明菜はそんな僕を一瞥して、相変わらずのゆるゆるとした表情で、口を開いた。 「――『人生の目的に対する疑問は、無限といってよいほどに、しばしば提出されてきているが、ついぞ、満足できるような答えが与えられたことはない。また、そのような答えは、おそらく、決して許されないものなのだろう』――っていうの」 よくもそんな文章を、すらすらと止まりもせず口にできるものだ。こう見えて、明菜は案外頭がいいのかもしれない。よく考えてみれば、僕と明菜が通っている大学だって、レベルはそこそこある国立だったりする。 「知らない。誰の言葉?」 「フロイトだよ。オーストリアの精神分析の学者さん。いや、心理学者かな。結構な嫌われ者だけど、マルクスやニーチェに負けず劣らずだと、私は思ってる。――まあ、そんなことはいいや。ね、この言葉、どう思う?」 「どう、って」僕は後ろ髪をぼりぼりと掻いて、「僕は、哲学は得意じゃない」 確か、明菜の学部は哲学も勉強しているはずだが、僕は齧ったことすらない。名前ぐらいは聞いたこともあるが、それも表面だけで、ただ野口英世を見て「お札に載っている人」とだけ認識するようなものだ。ことさらフロイトに関しては、昔の学者というぐらいの予備知識しか持っていなかった。 「得意とか、関係ないと思うけどね」明菜は僕に、呆れたように肩をすくめてみせる。 「じゃあ、質問を変えよう。泰ちゃん、泰ちゃんが生きている人生の目的って、なに?」 なんだか、思春期の中学生にでも問いかけるような質問だ。すぐには思いつかなかったので、素直に「分からない」と首を振る。明菜は、僕が一応「考えた」という事実を認めたのか、こくりと一度頷くだけで、それ以上追求はしなかった。人間、大学生にもなって、そうそう青臭いことを言えるものじゃない。 「それじゃ、泰ちゃん個人じゃなくて、一般論的に見て、人生の目的っていうのは、どういうものだと思う?」 いつの間に哲学の授業に変わったのだろう、と僕は胸中で苦笑しながらも、しばし頭を働かせた。とりあえず、自分のことは棚に上げる。人間を一つの集大成と見て、一つの枠組みと見て、考える。ややこしい先入観はたくさんあるけれど、それらを意識して外すと、いつでも不毛な観念が渦巻いている僕の頭の中は、突然水で洗われたかのように、すうっと溶ける。先走った考えがなければ、人間は何でも、純粋な気持ちでものを捉えることができるのだろう。案外、生まれたばかりの赤子にでも質問した方が、よっぽど的確な答えを得られるのかもしれない。 数十秒の沈黙の後、僕はまだどことなく浮ついた脳内で、台詞を紡いだ。 「生物学的に見れば、繁殖。精神学的に見れば、成長、かな」 「いい答えだね」明菜は、にこりと笑って、そう褒めてくれた。年下に上からの目線で褒められても、あまり嬉しくはないのだけれど。でもさ、と明菜は続ける。 「じゃ、今の泰ちゃんの意見に基いて、繁殖と成長のために生きて下さい、あなたはそれだけのために人生を歩んでいるのです、って、他人から言われたとする。さあ、どう思う?」 「それは――」ゆっくりと、僕は明菜の言葉を吟味する。「それは、ちょっと、残酷だな」 うん、と明菜は肯定した。「でしょ? そんなこと言われて、嬉しいはずがないよね。むしろ、冷血な印象さえ受ける。きちんと、一般論で考えたとしても、人生の生きる意味なんておっきなテーマに、答えは出ないんだよね」 明菜はケーキの皿を重ねながら、だから、と続けた。 「だから、フロイトは言いました。それに満足のいく答えはありません。ていうか、それ以前に、答えの出ることを許してはいけません。人間ひとりひとりに、生きる意味はあるんだから。人生なんて、一つの道で決められるものではないのだから」 明菜が言うと、それらの言葉はまるでおとぎばなしの一節のように聞こえた。人生、という重い言葉も、明菜の前ではふわふわと飛んで跳ねるぐらい、軽い。しかしそれは、明菜が粗忽でその重たさを分かっていない、というわけではないのだろう。分かっていて、何度も何度も考えて、結局答えなんて出ない。出るはずがない。ならば、他の人が、そのことでくよくよと悩まないように。軽いと割り切って、そこで挫けないように。明菜の言葉には、そんな形のない説得力を、強く感じた。 「さて、そこで」明菜はテーブルの上に両手で頬杖をついて、また、にこりと莞爾な笑いを覗かせる。「海の話に、戻ります」 「は?」唐突な話題展開に、僕は間の抜けた声を上げた。明菜はそんな僕などお構いなしに、喋る。 「だから、海の話だよ。さっきの、海が甘ければいいのにねっていう話。泰ちゃん聞いてなかったの?」 「いや、ていうか」聞いていなかったわけではない、むしろ積極的に聞いていた。しかし、それとこれに、どういう接点があるのかを、僕は図りかねていたのだ。明菜の話題は、少々、突飛しすぎる。 「私はさっきさ、海が甘ければ、みんなが楽しくなれるっていったよね。それは、味覚だけに限定したことじゃあないと思うんだ。そんな異常な、ありえないことが起こったら、人間少しぐらいは心が浮つくでしょ。甘いものが嫌いな人だって、きっと、楽しくなる。人生に疲れたおじいちゃんも、友達にいじめられてる小学生も、家族を事故で亡くしたお母さんも、ちょっとぐらいは、その話題に意識が集まる。負じゃなくて、プラスの感情が、ね。そうすればさ、その一瞬だけでも、世の中には、楽しいとか嬉しいとか、そういう思いが集まって、充満する」 こじつけのような気もするが、絵本の中のお話とでも考えれば、それらはことのほか、的を射ているような気もした。ある日とつぜん、海があまくなりました。コップですくってのむと、口の中にあまさが広がる海です。たくさんの人が、その海をのみにきました。のんだ人は、次々とえがおになっていきます。 「それが、フロイトとどう繋がるんだ?」 口を挟むと、明菜は「そのままだよ」と言った。 「そのまま、それこそが、だよ。それこそが、一般でいう生きる意味じゃないかな? みんなが楽しくなれる、みんなが嬉しくなれる。平和を求める理由だって、つまりはそういうことでしょ。簡単だよ。悲しいことも辛いこともたくさんあるけど、それを上回るぐらいの楽しさや嬉しさを、作っていく。そのために、恋もするし、勉強も仕事もする。人生の目的なんて、それぐらいだよ。何も、難しく考える必要はないと、私は思うんだ。生きていて、楽しいと思える瞬間があれば、それはそのまま生きる目的とか、生きる理由になる。それ以上のものは、何にも必要ないよ」 柔和な顔つきをしているが、その言葉はどことなく真剣さを帯びていて、寂しさや憂いを含んでいるように感じられた。僕はしばらく明菜の顔を見つめて、ゆっくりと、できるだけ茶化す響きに聞こえないよう配慮しながら、言う。 「明菜」名前を呼んでから、「――失恋でも、した?」 さっき、僕の恋愛事情について尋ねてきたのも、恐らくそんなことが理由だろう。明菜は一度きょとんと目を丸くしてから、苦々しげに唇を歪めて、「だからモテないんだよ、泰ちゃん」とうそぶいた。認めたも同然だな、と僕は苦笑する。 「それ以上のものは、必要ないんじゃないのか?」 「うん、そう、そうだよ」こくこくと、明菜は三度も首を振った。「だから、いいの。諦めたんだよ、私は」 ここまで回りくどく喋り続けたのも、僕にそのことを伝えたかったから、という意図あってのことかもしれない。他人を説得するために喋って、同様に、自分をも納得させていたのだろう。 「来年の誕生日はさ」言うと、明菜ははてと首をかしげた。「僕のこと、呼ぶなよ」 明菜は、そうだね、と歯をみせて笑う。 「呼べなくなるように、努力するよ」 その言葉を最後に、明菜は立ち上がって、台所に皿を運んでいった。僕はしばらくぐったりとソファに体を預けて、目を閉じる。 来年の今日、僕がどこでどうしているかは、なんとなく、考えたくなかった。 fin (2008.04.27) |