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雨の火の鼠 雨の日の空気を味わうのが好きなんだ、と彼は言って、ライターの火をつけた。当然のことながら、ボッと燃え上がったその炎は、上から絶えず落ちてくる透明の雫のせいで、すぐに消されてしまう。それでも彼は、何度も何度も、そこに火を灯そうとした。一瞬の火を求め続ける彼の姿は、私の目に何かの象徴のように映った。それはとても、刹那的な明かりだ。彼と私とを照らす、ほんのイチビョウの灯火。 「暗いね」と私が言うと、彼はうん、と頷いて、また貧弱な火をつけた。 「でも、暗いのは、雨のせいじゃないよ。雨のせいでも、曇りのせいでもない」 「じゃあ、何のせいなの」 「カサだよ」彼は、ふと微笑む。「カサが、空を覆ってしまっているんだ。天気は悪くない。人間が、自分たちの手で、作為的に空を狭くしちまってるんだ」 ふぅん、と私は答えて、ゆっくりと見えない夜空を仰ぐ。夜、という名の暗闇も、雨、という名の深淵には負けている。今日は雨だから、夜は来ないのだ。そう思うと、私は何だか愉快な気になって、思わず「面白いね」と彼に向かって呟く。彼は面倒臭そうに、私の顔をちらりと見るだけで返事をした。彼の髪の毛から滴った雨が、私の頬に染みた。 私たちは濡れ鼠だった。どちらも、全身が、びっしょりと雨に沈んでいた。水滴を吸いすぎたジャージが、私の体を重くし、私の外見を醜くしている。じっとりと、ヌメル。 先程から、目の前を通っていく車に乗った人々の多くが、私たちに好奇の目を寄せていた。彼らは、どうしてこんな豪雨の日に外で突っ立っているヤツがいるんだろう、とひとしきり首を捻り、それから哀れむような視線で、濡れ鼠を見捨てた。濡れ鼠は、豪雨の日の風景としては、あまり異彩を放ってはいなかった。私たちは普通に、当たり前に、雨の中に溶け込んでいた。だから、彼らの好奇心も、一瞬で消える。 濡れ鼠の存在は、ライターの火よりも消失が早い。 「ねえ、チィ君」 悲しいことに、諦めることを知らない彼は、まだライターをいじっている。彼はいつも、下らないことに異様な執念を燃やした。例えば彼は以前、自分の指に輪ゴムを巻きつけるのが好きだった。彼は五本の指すべてに、丁寧に輪ゴムを巻いて、外して、また巻いた。血、止まるよ、と私が言うと、彼は分かってると頷いて、けれどその珍妙な行為を止めようとはしなかった。彼の指は白く、青く染まっていき、やがて爪の先がぐにゃり、と歪んだ。小指の細胞が壊死してから、彼はようやく、輪ゴムを捨てた。 本当は彼も、自分の行いが何の利害も生まないことを、承知しているのだと思う。それが下らないことを、彼はちゃんと知っている。それでも彼は止められない。そこには一種の中毒性が眠っていた。彼の無表情は、私の目には、常に蒼白に映った。彼は、追われているのだ、と私は思う。彼は、彼の理性に追撃されている。 だからもう、私は彼を止めはしない。私は、彼のためであれば、濡れ鼠はおろか、溝鼠になることすら厭わない。好きなだけやればいいのだ、と私は胸中で彼をさとす。何を生み出さなくとも、何を見つけなくともいい。私たちは矮小であり、無力だ。雨に融解するべき鼠なのだ。 ジャージの裾を、ぎゅうとしぼる。ぽた、ぽた、と雨の中に、雨が降る。痛いほどの雨だった。空から落ちてくる物体が、全身を叩きのめしているように思えて、私は思わず萎縮する。彼のジャージを掴むと、そこからも水滴が溢れて、私の手の平に滲んだ。 「これから……どう、しようか」 「どうって」 「ちょっと寒いよ。ケータイ、もう、だめンなったよ。風邪、引いちゃうかも、だよ」 私がそう言うと、彼は何か考え込むように一度押し黙ってから、ゆっくりと、私の髪の毛を撫でた。べっとりと濡れた私の髪が、彼の手に吸い付く。何だか、気持ち悪かった。私は俯いて、彼の手の感触を静かに味わう。彼のもう片方の手で、途切れ途切れに点滅する火に目をやると、それはどこか点滅する光のようにも思えた。カチ、カチ、とそれは灯って、ザッ、と滅した。 「火には、浄化作用があるんだって」 また、私たちの前を車が横切る。眩しすぎるヘッドライトが、私と彼の姿を、まるで犯罪者を照らすような勢いで、鮮やかな晒し者にする。 「火は、全てを消すんだって。燃やされると、全部、なくなっちまう。すべてが、清算されるんだ。傍目も中身も、燃やされれば、すべてが消える。跡形もなく、始めから、なァんも、なかったみたいに」 「でも、それ」過ぎ去っていく車を見送りながら、私は言った。「雨も、同じじゃないの」 「雨は、中身までは消さないよ。雨に流されるのは、体面だけだ。それも、随分と軽くて、小さなものだけ。カサを差している人間は、まず、雨に流されたりなんてしない。みんな、抵抗しているんだ。雨に、流動されないように、必死で、もがいてる」 そう言った彼が、どこか笑っているように思えて、私は彼の顔を盗み見る。長い前髪が、すだれのように顔を覆っているのにも関わらず、彼の目は、どこか遠方を見つめているようだった。いつの間にか、私を撫でていた彼の手は下ろされて、私のジャージを摘んでいる。縋っている。 「チィ君」 「うん」 「もがく?」 「ん――」 私はまだ、流されたくなかった。豪雨に沈みたくはなかった。この暗い雨は、恐らく私たちの中に浸透するが、私はまだ、この雨にろ過されたくない。焼尽するには、私たちはあまりにも早い。雨に流されるのは、彼がすべてを終えた後でいい。彼が、すべてに納得できた後でいい。私たちは、濡れている。濡れている物を焼けはしない。ならば、私たちはまだ、浄化されない。 刹那以上の時間を保って、彼の火が雨の中にたゆたうまでは、私たちは、このままで良いのかもしれない。 私たちは共に、雨に焼かれる。雨の中に、灯明を待つ鼠たちは、灰燼され―― 「カサ」 と、彼が言った。 「カサ、買おうか。風邪、引く前に」 そして、濡れ鼠たちは、暗渠へ没した。 fin (2009.06.14) |