アサとカチカチ

 迷路を抜けるとアサが来る。折れ曲がり、入り組んだ道をずうっと進むと、夢はどんどん深くなる。
 時々大きな壁にぶち当たると、前に進めないから、俺はあーあとひとしきり唸って、目の前にそびえ立つ汚れた壁を睨んでやる。壁は当然何も語らず、ただ漠然と仁王立ちして、そこにいる理由なんかないだろうに、俺が先へ進むことだけを頑なに拒否しやがる。どれだけ恨めがましく視線をぶつけても、壁はふんと鼻で俺をあしらい、さっさと行けとでもいうように無表情。仕様がないから、俺はふんと壁を蹴り飛ばして、自分の指の先っぽをわざわざ痛めつけてから、道を後戻りする。
 そういえば、迷路にはいつも終わりがない。あるのは刻一刻と過ぎていく時間制限だけで、まるでゲームオーバーを待つ、赤いデジタル数字でも置いてあるかのように、カチカチという秒刻みの音がどこからか聴こえている。絶え間なく鳴っているその音は、俺の鼓膜をごそごそとくすぐり、心臓を掴んでぶるぶると上下に動かす。焦っているのだ、ということを、俺は背筋に流れた汗で知る。
 迷路には色がない。いや、だからといって、透明だとか無彩色というわけでもない。正確にいうならば、色はあるのだけれど、視界に映るもの全てが、まるでフィルムでも通したかのように、一色に統一されているのだ。その一色は迷路に入るたび違うけれど、毎回均一だということに変わりはない。例えばその一色が赤だったら、壁も、空気も、俺自身も、肌と服の区別すらなく、全てが赤なのだ。青だったら、それが全て青という、ただそれだけの話。だから、色の感覚なんかすっ呆けて、出てくる結論はイロガナイ。
 ちなみに、今日は赤色と茶色が混じったような、何だか妙な色。鉄錆色、赤銅色とでもいってみようか。色の中に溶け込む俺は、走らず、焦っている。頭の中では、この色で髪染めしたらモテそーだな、なんてどうでもいいことを考えているけれど、俺の背中は確実に、誰かの手で押されている。せわしのない力と、耳鳴りのようなカチ、カチという音が、俺を無様に震えさせる。
 やがて――音が鳴り止み、脱色でもしたかのように赤銅色がすうっと抜け落ち、俺の周りから壁が、突然砂のようにさらさらと溶けて、魔法みたいに消えていくと――それで、ようやく俺は、アサが来たことを、知るのだ。
 アサは、俺に、夢と迷路のオシマイをもってくる。
「――おっはよう!」
 ぱちりと目を開けた途端、耳が先に反応した。思わず顔をしかめると、上から覗き込むようにして俺を見ているその顔が、意地悪くにやりと頬を歪める。そいつの無駄に長い金髪が、俺の頬にはらりとかかって、くすぐったいというよりは痒い。
 上半身を起こして、「うるさいなぁ」と毒ついてやると、そいつはけたけたと愉快そうに笑った。口を豪快に開けて笑うくせに、整った顔立ちだけは崩れないのだから、それが余計に憎たらしい。
「昼まで寝てるあんたもあんたでしょ、キク。お天道様もとっくに昇って活動してるよこのノロマ男」
「今日はバイトないからいーの、リョウに起こされる義務とかない全ッ然ない。久しぶりの休みなんだ、ちょっとぐらい寝かせろ」
 口の中でもごもごと呟きながら、俺はもう一度、まだ自分の体温が残っているソファに身を倒そうとする。と、リョウはそんな俺を一重の目で首をかしげて見やり、それからおもむろに――俺の額を、細長い指でバチンと叩いた。
「痛って……」全く容赦がない、本当に音が鳴った。恐らく赤くなっているのだろう額に手をやりながら、俺は「何だよ」と、頭上にいるリョウを睨み付ける。リョウは、叩いたことがさも当然であるかのような余裕顔で、俺の視線を受けて返した。美形ってのも案外厄介かもな、俺の優しげな睨みなんかより、よっぽど凄みがある。
「だから起きろっつってんの。言ったことぐらい一度で聴け。キク、あんた今日、休みじゃないでしょ」
「はあ?」バイトはない、それは確実だ。休みの日ぐらいは、いや休みだからこそ覚えている。
「はあ、じゃないって」リョウはふう、と呆れ顔で溜め息をついた。「今日は何の日か、本気で忘れたの?」
 言われて、俺はぼんやりと頭を働かせる。何か忘れてること、あったっけ。楽しみにしてる漫画の発売日も、コンタクトの交換日もまだだ。課題レポートもついこの前提出したばかりだし、何かの振込みがあったわけでもない。お菓子の賞味期限? どうでもいっか。
 考えても思い至らなかったので、諦めて「何」と問い返す。リョウはそんな俺の面を見て、何だか檻にでも入れられた子犬を哀れむように、少しだけ目尻を下げた。胸の前で腕を組み、珍妙な表情のまま、リョウは言う。
「キク、私たち――今日で、二十歳でしょ」
 あ、と一声もらして、ばっと上半身を起こした俺に、リョウはよく映えるウインクを一度かまして、
「オトナになったんだから、さっさと顔洗ってきなよ。とんでもない顔してる、それじゃあオンナノコも叫んで逃げてくね」
 言いながら、リョウはさっさと台所の方へ歩いていった。何だかんだいって飯を用意してくれるのだろう、ということに少しだけ胸中で感謝しながら、俺はまだ眠気の充満している頭を一度ぽんっと叩いて、虚空に浮かぶ塵でも探すかのように、目の前の空気をじいっと睨む。
 ――俺の二十代の始まりの、なんと、馬鹿げたことか。五年前、晴れて成人を迎える日の朝は、きっと可愛いカノジョとベッドの上だなんて妄想も、この時点であっけなく消えたわけだ。情けないというよりは、アホらしい。現実は昼の太陽が顔を出す頃に、自宅でもない部屋の片隅で、一人ソファの上からずり落ちるのである。五年前の俺もここまでは想像していなかった、予想外すぎて涙が出てきそうだ。
「あー……」
 二十歳になった自分の内側は、昨日までと何の変化も見せないままに、アサに辿り着いてしまったらしい。迷路は終わることを知らず、俺が成人してから初めて見た色は錆びた鉄で、初めて聴いた音は、タイムリミットを刻むカチ、カチ。
 それでも――おめでとう、と小さく、呟いてみる。リョウと俺、二人ともに。
 けれど、その言葉は何だか、ひどく冗談めいて聴こえてしまう。

   *  *  *

 時々、リョウとの関係が友達か恋人であれば良かったのに、と思うことがある。
 それは如何わしい意味ではなくて、もし元から何の繋がりもない状態でリョウと出会えたのなら、俺はもっと彼女について知れるだろうし、互いにつまらない相談相手になれたんじゃないだろうかと、そう思うからだ。俺はリョウという存在に対して、気恥ずかしいながら、大きな評価を捧げている。人間として、尊敬という面で見て、リョウは俺にとっての魅力的な存在に他ならない。
 仮にも、双子のくせに――リョウは、俺なんかとは、全然違う。頭の出来や、顔立ちや容姿も何となく似ているから、周囲の人は何も言わない。寧ろ、同じ癖があるのを発見しては、やっぱりフタゴなのねえ、なんてしみじみと言う。
 だからこれは、その双子を演じている俺たちにしか、分からないことなのだ。俺とリョウでは、根本的に、違っている。双子という形で生まれてきたことが、不思議にすら思えてくる。外見はほとんど同じなのに、本物の宝石と偽者の宝石、そんな感じ。有能な鑑定士と、宝石自身にしか分からない、包み隠された相違点は、俺の前では鬱陶しいほどにきらきらと光り、他人の前では輝かない。
 ――少なくとも、リョウは決して、迷路の中で彷徨ってなどいないのだ。俺がカチカチに怯え、冷や汗を垂らしながら焦っている横で、リョウはその迷いのない手でぴしっとカチカチの音を止める。壁を悠然とすり抜けて、すぐに迷路の終わりを見つけ、俺がぐるぐると同じ場所を巡っている頃、リョウの迷路はとっくに消失し、アサの匂いが立ち込めているのに違いない。
 俺より早くアサを迎えるリョウは、俺と一緒に、二十歳の朝を迎えた。
 それを理不尽だと感じてしまうあたりが、どうしようもない、俺のガキっぽさなのだろう。

   *  *  *
 
「キッ君、誕生日おめでとう」
 相変わらず、「キク」に「君」を付けるものだから、舌が上手く回らずに、「キッ君」なんて珍妙な呼び名になっている。俺はそのことに、もう何度目かも分からない苦笑を返して、素直に「ありがと、アズキちゃん」と礼を述べた。アズキ――苗字が小倉で、アズキはそこから来たあだ名だ――はにっこりと緩やかな笑みを浮かべ、どういたしましてと照れくさそうにお辞儀した。オブラートに言うと可愛い、ストレートにいうとかなり可愛い。
「アズキ、こんな奴を祝うのは間違ってるよ」ほのぼのとした団欒の中に、ぴしゃりと鞭のような窘めが響いた。「そいつ今日、昼まで寝てたの。せっかくの二十歳最初の一日に。馬鹿にもいい加減限度がある、こいつと一緒に生まれてきたなんて私の一番の大恥だよ、嘆かわしい」
 夕食の支度をしながら、リョウははあっと大袈裟に溜息を吐いた。そんなあ、と一応フォローの手を差し伸べてくれるアズキの横で、それまで無表情にだらりとしていた男が、ようやくその口を怠惰に開く。
「リョウ、それを言うならさ」にやりと片頬を歪めながら、「キクより後に生まれてきたってことの方が、恥じじゃないの? 実質上、キクはリョウの兄貴だろ。双子ならまだしも、兄って方がビミョーだって」
「黙れサギ」俺はヒートアップしてきた会話の流れに思いっきり嫌悪感を感じて、言った。「それ以上言われると、マジメに、へこむ」
 場に、遠慮のない笑い声が響く。俺は釈然としないながらも、その穏やかな雰囲気につられて、一緒になって頬を弛緩させた。
 キク、リョウ、アズキ、サギ。大学で一緒の学科に属する、男二人と女二人という丁度いい割合で構成された、いわゆる仲良しグループだ。もちろん他にも友人はいるが、大抵何かがあるというと、この四人で集まる。今日も、俺たち二人の成人パーティをやろうと言って、リョウのアパートに集っていた。
 大方こう、素晴らしい比率の男女グループでつるんでいると、その内部で二組のカップルでも出来そうなものだが、この内輪では一人と一人が双子という間柄の分、そうそう上手いことにもいかない。俺とアズキ、リョウとサギが、という考え方もできるが、何が間違ってしまったのか、リョウの話によればアズキは若干、いや結構、サギに心惹かれているようである。こんな男のどこがいいのかについては、全くもって理解し難いが、アズキ当人がそういうのであれば、俺は影から小さく声援を送るほかない。
 悶々とそんなことを考えている俺の前で、アズキは唐突にふっと席を立ち、「手伝うね」と言って台所に立った。流し台の前に二つ並んだ顔を眺めながら、リビングに取り残された使えない男二人の間に、陰気な空気が流れる。サギは以前から、軽度のニコチン中毒のような節があるが、さすがにこんな狭い部屋の中では我慢しているのだろう、先ほどから煙草を吸おうとする素振りは見られない。
「なあ、キク」
 アズキが想いを寄せる男を、若干探りでもするように観察していると、向こうの方から素っ気ない声がかかった。何、とこちらも無愛想に応答してやると、サギはよいしょと一度ソファに腰を据え直して、透明の煙草でも吸っているかのように、手を口の前に持っていく。ちらりと台所の方を気にしているのを見て、彼女たちには聴かれたくないことなのだろうか、と察した俺は、わずかに身を乗り出した。
「何だよ」
 もう一度訝しげに問うと、サギは眉に似合わないシワを寄せて、「あのさあ」と小さく言った。
「あのさ、お前、ちょっと前に――」
 そこで一息ついて、サギは咎めるでもない、面白がるのでもない、感情の波をぴたっと押し留めた、見事に無感情な声色で、こんなことを、呟いた。
「犬を――殺さなかったか?」

   *  *  *

 俺はまた、両脇を壁に阻まれて、迷路の中に立っている。今日の色は、鮮やかで暗さの一つもない、真っ赤。俺はその色を視界の全てで捉え、ああこれは俺の車の色かと、すぐに思い至った。
 狭い道を右に行ったり左に行ったり、奥の見えない壁に突き当たりながら、俺は今日のサギの言葉を、頭の中に反芻させる。俺はサギに、嘘をついた。どす黒いわだかまりが心臓の近くでぞくっと震え、それは恐らく脅えだったのだろうけれど、その震動が俺に、つまらない虚言を吐かせた。
 ――何の話?
 そう首をかしげて問い返すと、サギもそれ以上は何も言わずに、違うならいいんだと素直に引き下がって、それ以上犬殺しについての話はしなかった。その後俺たちは、リョウとアズキの手料理を満喫し、小学生にでも戻ったかのようにみんなでゲームなんかして、夜遅くまで騒ぎ、ビールを片手に語り合った。
 思い返しながら、俺はゆっくりと自分の左胸に手を置いて、はあっと重い息をついてみる。足はもう進むことを拒み、カチカチという止まない音の下、迷路のど真ん中で、俺は立ち止まっていた。平気な顔を取り繕いながら、決して休まることのなかった緊張の糸。サギのあの問いかけは、間違いなく、俺の頭を叩きのめした。
 あれはもう、一週間ほど前のことだろうか。今でも鮮明に、場面だけは記憶しているのだから、俺が受けた影響も相当のものなのだろうと思う。俺は決して、血も涙もない冷血漢じゃない。どちらかといえば、争いごとや血を見るのが嫌いな人間だ。そして、だからこその、臆病者。
 一週間前、俺は自分の赤い車で、野良犬を轢いた。
 雨の日の、空が朱色に染まり始めた頃だった。ぽつぽつと降り出してきた雨を前に、俺はレンタルビデオの返却のため、最近自動車免許を取ったばかりだったから、練習の意味も込めて車に乗った。免許入手と共に、バイトで貯めた金をはたいて買った、中古の赤い車だ。自宅を出た途端に雨は強まってきて、ざあざあという音と一緒に、フロントガラスをびっしょりと濡らした。
 まだ、運転に自信がなかった。だから、公園の前で大きな水溜りにタイヤが沈み、ぐらっと唐突に車体が揺れた瞬間――ハンドルを持つ手が、滑ったのだ。
 目を閉じる間際、ほんの一瞬だけ視界に映ったその犬は、首輪がなく薄茶色の毛並をしていた。公園の前でぼんやりと立っていたその犬に、車が突っ込み、何かがぶつかったような手ごたえと、どすん、という衝突音――。
 俺は、あの時、そこから逃げた。
 犬が死んでいるかも生きているかも確かめず、混乱した頭で、ただただ車をバックさせた。野良犬なら誰かに咎められることもないだろう、という無機質な感情だけが胸中を支配して、決して轢いた犬を見ようとしなかった。目をそむけ、思考を停止させて、そのまま何事もなかったかのように、走り去った。
 だから今日、なぜそれをサギが知っているのかが、俺には不思議だった。そして、どうしてサギが、あの事故に対して、「犬を殺したか」などという残酷な言い方をしたのかも、俺には分からない。
 けれど、そうだ、これだけは、分かってる――サギは、あいつは決して、無意味な嘘を、つかないヤツだ。
「……そっか」
 俺はぽつりと、声を漏らす。何気なく喉から溢れ出た呟きだったが、迷路の中で声が出せることを、俺はその時初めて知った。迷路の中を支配している音は、これまでカチ、カチの秒音だけだったのに、そこに俺の声が混じり、カチカチの上に重なって壁に反響している。
「あの犬、死んじゃったのか」
 何だか、不思議な気分で、吐きたくなった。
 やがて、俺の視界から赤色が抜かれ、周囲の壁がだんだんと溶け始める。アサが来たのだ、と俺は知る。だけれど、なぜだろう、鼓膜を規則正しく揺らすカチカチの音だけが、今日は一向に止まらない。アサが来たはずなのに、迷路はとうに消え去ったのに、俺はまだ夢の中にいて、カチカチだけを聴いている。
 今日は、リョウが起こしてくれない。壁と色の消失した、だだっ広くて透明の空間には、何の声も響かない。
 あ、と言ってみる。先ほどまでは出ていたはずの声は、ただの一つも、空気の波にはならなかった。なのに、カチカチだけが、鳴り止まない。心臓を圧迫する、俺の額に汗を垂らす、背中に戦慄を走らせる、そんな不穏な音の響きを何としてでも掻き消したくて、俺は叫ぶ。腹の底から、これ以上ないほどの絶叫を揺らす。口の中がすうっと冷え切って喉がからからに干乾びるまで、叫び続ける。
 アサが、来ない。アサが来ないアサがこないアサガこないアサガコナイ――朝が、
「――キク、キク起きろこの馬鹿キクッ!」
 鼓膜を破るようなけたたましく鋭い声が、空間の中に突然ぐわんと反響して、その余韻が消え終わらないうちに、俺はぱっと目を覚ました。頭に走る鈍い痛みで、ああまた俺はこいつに殴られたのだな、とぼんやりした頭で気付く。
「寝るか唸るかどっちかにしろ、鬱陶しい! 寝ながら汗垂らしてンな顔して、しゃきっとしろ!」
 目の前にある双子の顔が、何だか奇妙に歪んでいた。リョウの周りの空気だけが、ぐいっと捻じ曲がってしまったかのようで、俺はその不可思議さに目をぱちぱちとさせる。そんな呆けた表情の俺を見て、リョウは何を思ったのか、突然ぱっと顔を引っ込めた。遠ざかっていく足音を子守唄に、俺はまた、目を閉じる。まだ夢の中に、あの消え去った迷路の中心点に取り残されているのではないか、と神経の隅で思う。
「キク」
 一向に夢に入らない、ただ目蓋を閉じただけの真っ暗な空間を揺らいでいた俺の顔を、いきなりざらっとしたものが舐めた。何だよ、と若干疎ましく思いながら、俺は自分の顔に手をやる。ごわごわとしていた。反対側から撫でると、ふわふわになった。
「汗、噴きなよ」 
 うん、と頷いた俺の声が、リョウの耳に届いていたかは分からない。ただ俺は、その言葉でようやく我に返り、ゆっくりと上半身を起こして、ごしごしと顔全体に浮かんでいた寝汗を拭った。そのタオルには、香水の匂いやら化粧の匂いが染み付いていて、全然、気持ち良くなかった。ひん曲がりそうな鼻を何とかこらえて、幾分かすっきりした後、俺は目の前に立つリョウに、タオルを差し出す。
「……ありがと」
 どういたしまして、と、リョウは笑った。けれど、その笑顔もいつもの威勢のいい快活な笑みとは少し違い、今だ何かの時空でもずれているかのように、わずかに捻じれている。笑っているのに、どこか不安気な唇の上がり方と、暗色の混じったような瞳の揺れ具合。
 リョウは腕を組み、胸を張って、何とかいつもの自分を取り繕うとしているようだった。それでも、いつもは迷いなどないはずの目が、今はどうみても、不自然にぐらぐらと揺れているのだ。
 リョウは、歪んだ唇のまま、俺を真っ直ぐに見つめていた。
「二日酔い? 随分、ひどそうだったけどさ」
 二日酔い、と聴いて、俺はようやく思い出す。そういえば昨日、自宅に帰った記憶がない。恐らく、飲み明かしたまま、リョウの部屋で眠ってしまって、そのまま朝が明けたのだろう。サギとアズキの気配はないから、あの二人はきちんと終電で帰宅したのに違いない。肉親ならではの特権だなと、俺は二日もリョウの自宅に泊まりこんでしまったことを恥じつつ、思う。
 頭に手をやると、確かに酒の酔いの残響がガンガンと鳴っていたが、俺は元からアルコールに強い体質だ。だから、たぶん――寝覚めが悪いのは、酒のせいじゃない。
「……なあ、リョウ」
 俺は、まだ上手く働いていない喉から、必死で声を絞り出した。そんな俺の声色に、何らかの不穏な響きでも聴き取ったのだろう、リョウが整った顔に眉をしかめて、「なに」と聴き返してくる。
 ――言おう、と思ったわけではなかった。ただ、言いたい、と思っただけだ。
 あの雨の日の出来事を、俺が犬を轢いて、そのまま逃げてしまって、その一件をサギに問われたこと、「犬殺し」の全ての顛末を、俺はリョウに、洗いざらい喋った。
 その時自分が、どのような表情をしていたのかは、分からない。ただそれらは、いたずらに罪悪感が咎めて、オトナに自供するコドモのようでもあり、はたまた、不祥事の対応を事務的にこなす、無機質な言葉の羅列のようでもあった。途中で何度か飲み込んだツバの味だけが、苦くて、不味くて、辛かった。
 それでも、全てを吐き出した後には、俺の内に溜まっていた鉛がすうっと溶けて、鈍痛が走っていた頭のガンガンも、いつの間にか消え去っていた。
 恐らく俺は、その瞬間にようやく、今日のアサを迎えたのだろうと、そう思う。
「……分かった」
 俺の話を聴き終え、数秒の沈黙の後に、リョウは言った。その断固とした口調に、俯いていた俺が顔を上げると、先ほどのリョウとの違和感に、一度くらりとめまいが襲う。なんだ、と思って再度リョウの顔を観察すると、今度はすぐに違和感の正体について察しがいった。
 真剣な顔でこちらを見据えてくるリョウの目は、もう、揺らいでなどいなかったのだ。リョウの周りの空気も、その微妙な間にようやく本来の軌道を取り戻したかのように、ぴしっと張り詰めていて、ずれがない。揺らぎは収まり、俺の視界の中に、いつものリョウはやはり悠然と立っていた。
「キク」言って、リョウは床に投げ捨ててあったジャンバーを拾い上げ、俺の方に投げて寄こす。それを慌ててキャッチすると、リョウはにやりと顔に似合わない微笑み方をして、
「行くよ」
 と、それだけ言った。
 俺は頷くこともかぶりを振ることもできず、ただ呆然と、リョウの顔だけを見つめていた。

   *  *  *

 あ、これ、とリョウが言い、その後に続けて、俺は口を開いた。
「……サギの字?」
 土がわずかに盛り上がっている、その頂上に、どこかで購入したのだろう、きちんとした板の墓標らしきものが刺してある。その板に書かれた文字は、わざわざ墨で書かれている割には、上手いのか下手なのかよく分からない行書体で、「オレンジの墓」と記されていた。
「おれんじのはか」まるで片言のようにリョウがその文字を読み、こくりと首をかしげた。「犬の名前、かな」
「分かんないけど、これ、サギの字だろ」
 膝を折って、もう一度よく眺めてみる。点の付け具合や、微妙にちらつく折れ曲がりのくせが、普段見慣れているサギの字に、とてもよく似ていた。リョウも俺の隣に座って、そうだね、と神妙に頷く。この墓がいつ作られたのかは分からないが、板は湿って変色しており、少なくとも三日前の雨の日以前に作られたのだろうと、俺はつまらない推理をした。
 俺が犬を轢いた、あの公園の片隅で、双子は座り込んでいた。あの後、行くよ、とだけ宣言したリョウは、その後はろくな口も聞かずに、混乱してあたふたしている俺を無理やり外へ連れ出した。そうして、すたすたと迷いなく歩くリョウの向かった先が、この公園だったわけだ。
 情けなくリョウに引っ張られていた俺は、公園の前に立たされて初めて、リョウの咄嗟の行動力に感心し、同時に少しだけ、この美人でガサツな双子の妹に感謝した。
「オレンジ、か」リョウはまた、その単語を呟く。
「サギの犬――だったの、かなぁ」
「そんな話、聴いたことないけど」サギが犬を飼うなど、聴いたこともなければ、想像すらできない。
「私たちに、秘密で飼ってたとか」リョウは、別に疑心などこれっぽちもないような、彼女にしては珍しいぼんやりとした表情になった。「だって、じゃないと、何でサギがこの犬の墓を作ったのか、分からないじゃん」
 それはそうだけど、と俺は言う。リョウの疑問は最もだが、サギという人物を思い浮かべてみると、俺はどうしても、あの犬がサギのものだったとは思えなかった。第一、サギが飼育していたのなら、こんな公園の片隅に墓を作ったりはしないだろう。
「分かんないけどさ」俺はゆっくりと、自分を説得させるように、言葉を選びながら言った。
「サギは、もし自分の犬だったら、もっと真剣に俺を詰問したと思う。サギは、下手な嘘はつかない。俺に尋ねてきたのも、たぶん、何かの考えあってのことだろうし。第一、俺は嘘をついたけど、サギが俺にあの話を持ちかけてきたのは、当たってたんだ」
 墓を前に、俺は言う。自分は恐らく、いや、恐らくじゃなくとも、この犬を、今土の下で冷たく横たわっているのだろう犬を、例え意思あってのことじゃなくとも――殺してしまったのに、違いない。
「うん」と、リョウは隣で頷いた。頷いて、目の前にある粗末な墓を眺めたまま、ねえキク、と冷たく色のない声で言った。何の感情も覗かない、真剣で無機質なリョウの声は、ただそれだけで、俺の心を揺るがせた。
「――謝りなよ」
 何に、とも、誰に、とも、リョウは言わなかった。ただ、決して俺の方は見ようとせず、墓にじいっと視線を据えて動かさないまま、謝りなよ、と、もう一度言った。
 だから、俺は何に謝ればいいのかも分からないまま、張り詰めた神経と苦い味が広がる口の中で、誰が聴くのかも分からない謝罪の言葉を、丁寧に、焦りながら、呟き続ける。
 かすれそうな俺の声と、鼓膜の裏側で響くカチカチの音が、わずかな間を必死で埋めるように、うっすらと重なる――そんな情景が、目の奥にぱちぱちと映っている。

   *  *  *

 次の日から、俺は迷路に入ることを止めた。夢は夢のままに終わり、時々は夢を見ることすらもせずに、俺は霞みのないアサを迎える。そのアサはこれまでよりも少しだけしっかりしていて、俺は誰かに起こされることもせず、それなりにすっきりとした頭で、日の光を浴びる。
 あの犬の話について、あれからサギは何も言ってこない。だから俺も、そして事の顛末を知っているリョウも、口を閉ざしている。もしサギがあの後、更に追及してきた場合には、俺も素直に白状しようと決めていた。しかしサギは、まるでそんな話など元からなかったかのように、いつものへらへらとした笑いのまま、俺たちと馬鹿話をし合っている。だから、これについては、今のところ、保留だ。
 ただ、リョウは口を閉ざしてくれてはいたものの、俺に対してのその後の仕打ちは、少々手荒だった。俺は数週間に渡ってリョウの使いっ走りにされ、何かと雑用を押し付けられ、その間頻繁にリョウの自宅に出向くことになった。
 恐らく、と俺は思う。リョウは俺に、自分なりの、「罰」を与えていたんじゃないだろうか。
 そんなことを考えながら、俺は何度かリョウの顔色を探ってみたけれど、そこからはやはり、何の意図も読み取ることはできなかった。ただ、俺は自分の思う方向に考えをまとめることにして、できるだけ文句も不平も吐かず、リョウの言葉に従った。数週間の後に、リョウは俺に「お疲れ」と言って、その後はいつも通りの対応に戻ったから、たぶん、俺の見解は当たっていたのだろうと思う。今となっては、これの真相も不明だ。
 そして、俺がリョウの自宅に通い詰めになっていた数週間の間に、どうやらアズキとサギの間には何やら色々とあったらしい。これはリョウから聴いた話だけれど、リョウ曰く「奥手な馬鹿二人がスローモーションにくっついた」のだそう。俺はその時、ふぅんと興味なさげに頷いただけだが、本当のところ何も返す言葉がなく、しばらくはそのサプライズにくよくよと頭を悩ませていた。何というか、サギを殴りたくなったり、蹴りたくなったりしたのだけれど、そんなのは全て、今更だ。
「……ね、キク」
 そうして――墓の前に座り込んだ日から、一ヶ月が過ぎたとある日のアサに、突然リョウからの電話が鳴った。受話器に向けて返事を返した俺に、リョウは何やら落ち着いた声で「あのさ」と言う。
「私たちって、一緒に、二十歳になったんだよね」
 今更何を言うんだ、と思った。その疑問を抱いたのは、一ヶ月前の俺だろうに。
「なんだよ」と呟き返すと、リョウは少しだけ笑いながら、
「いや、急に思い出してさ。色々あったから、忘れてたけど、ちゃんと言ってなかったから……」
 長い前置きの後に、リョウは小さく、けれどどことなく愉快な調子で、こんなことを言った。照れ臭さや恥ずかしさなど微塵もない、ただ音だけの弾んだ、豪快な笑い声。
「おめでとー、キク」
 ――迷路の消え去った空気に鳴っていたカチカチが、最後に、途切れ途切れのカチ、とだけ秒音を刻んで、その瞬間に、本当にぷつりと耳の奥で消え去ったかのような、そんな気がした。
 おめでとう、と言い返した俺の笑いで、ようやく――初めての、朝が来る。

fin
(2008.09.13)

   感想・批評など、よろしくお願い致します。



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