代役アドバイス

 真っ白い賃貸マンションの自宅に、帰りたくなかった。
 ――なんて言うと、それは思春期真っ最中の中学生の台詞にでも聞こえそうだが、生憎俺はこの前ついに四十五を回った親父で、思春期などとうの昔に捨て去っている。昔の家族の代わりに、今は俺が柱を保つ新しい家族を作り上げて、サラリーマンの片端でへこへことやっている。イエスマンだと罵られようがお構いなし、上司には頭を下げて、部下には胸を張って、働いた分の稼ぎがあれば、それでいい。
 いや、違うか。そこ、過去形。
 正確には、やっていた――だ。進行形だった頃は、つまらない毎日に嫌気が差して、なんだって自分が残業を押し付けられなきゃいけないのか、どうして上司の愚痴に愛想笑いを返さなくちゃいけないのか、と、無駄なことにストレスを溜めていた。できることなら職場など出向きたくないと、日に何度も考えていた。もちろん、妻子があるから、無責任に放り出すことはできなかったが。
 しかし、今になって思うと、あれはあれで幸せだったのだ。人間というのは、目標とは言わなくとも、とりあえず何か「やること」があれば、それだけで無意識な幸福感を得られる。誰かに辿るべき道を引いてもらえば、後はその上をつうっと歩いていくだけでいい。落ちる心配もないし、道を外れる不安もない。与えられたことをやっておけば生活は営めるし、ストレスが蓄積するといったって、その道を辿る過程での些細な刺激とでも考えれば、むしろ新鮮ですらある。
 一番怖いのは――道が、壊れた時だ。それまで安全だと思っていた地面が、何かの弾みでがらがらと音を立てて崩れ落ち、暗闇の底に放り込まれた時。周りが真っ暗になって、そこから八方塞りでどうしようもなくなった時。
 そういう時に限って、俺みたいな愚鈍な生き物は、ようやく今まで何気なく過ごしていた日々を振り返る。一日一日、大して変わり映えもしなかった日常を反芻して、それらの尊さに今更に気付かされる。するべきことがあった。家族を養うという目標もあった。嫌で嫌で堪らなかった仕事も、単なる機械作業のデスクワークだって、それなりのやり甲斐はあったし、達成感や充実感も足りていた。
 その瞬間には、気付かなかっただけだ。自分はずっと、たった一本の可能性しかない、定められたルートの上を通ってきた。それを忌み嫌って、外れようと足掻いていた、はずだった。
 しかし、いつの間にかそれらは俺の日常へと変換され、日常の中で平穏に過ごすための幸福感や満足感すらも、俺はその中に持ち始めていたのだ。
 気付かなかっただけ。その分、見落としていたものを、意識せずとも確かに存在していたものを、残らず失った代償は――大、きい。
 ――会社、やめてくれないか。
 そう言った上司の声は、それでも微かに震えていたように思う。恐らく、社員にクビを言い渡すことは、彼の長い人生のうちでも、初めてのことだったに違いない。影で若い女性社員から、セクハラオヤジの称号を受けていることを、俺はこの上司に教えてあげたかった。だから、お前、そんなに偉くねぇよ。大学卒業してきたばっかの、電車ン中で化粧してるようなオネエサンたちに、ボロクソに貶されてんだよ、お前。
 ――君がやめてくれなければ、代わりに、君と同期の橋田君を切らねばならない。だが、橋田君のところは、この前事故で失明したお嬢さんがいるだろう? 君のところの息子さんは、確か、もう大学生じゃなかったか?
 だから何だ、と言いたかった。そんなことは関係ない、いくつになったって大切な一人息子であるし、こちらだって今リストラされては、息子の学費も払えない、老後だって怪しい、老夫婦ともなれば何らかの病気にかかるかもしれない、そうすれば、金なんていくらあっても足りないだろう。
 言い訳は、それこそ吐いて捨てるほど、俺の胸中に溜まっていた。
 しかし、これは――脅迫、だ。無言下での、人の良心にちくちくと刺激を加え、圧迫しつくして、ウンと吐かせるための、脅迫。
 そこでも俺はやはり、イエスマンとならざるを得なかった。「分かりました」と頷いた自分の声は、喉がびくびくと痙攣しているのが分かるぐらい、見事なまでに震えていた。言った後の口内は、器官の奥からすうっといっきに干乾びた。「ありがとう」と、まるで自分が何か偉大なことでも成し遂げたかのように、満面の笑みを浮かべた上司の頬を、拳骨で殴り倒したいと思った。ぐつぐつと腹の奥が鳴って、頭に熱い何かが充満していた。
 しかし、情けのないことに、俺は結局、目の前の上司に何もできなかったのだ。ただぐいっと、せめてもの胸を張って、失礼シマスと呟き、引き下がっただけだった。
 何に当たればいいのか、分からなかった。上司を殴ったところで、別段、自分のリストラを決定したのはコイツじゃない。そんなのは、ただ駄々を捏ねて暴れる子供と同じ、八つ当たりだ。会社の都合上、たまたまパチンコの玉のようにぴんっと弾き飛ばされたのが、俺だったのだ。そこで、ハイ分かりました、と素直に受け止められるほど、俺はお人好しじゃない。けれど、憎むべき対象が分からないのだから、どこかで歯車が違ってしまったのだ、と諦めるほかになかった。
 ただ、と、俺は霧のかかって全く活性化していない頭で、考える。唯一、八つ当たりだと承知の上で、誰かを憎むとしたら。
 それは多分、上司でも会社でもなく、自分が身代わりとなった――、
「あの」
 突然声をかけられ、俺は俯いていた顔をふいっと上へ向けた。
 リストラ宣告を受けてから一ヶ月、四十を超えた年配者を雇ってくれる職場もなく、俺は日々職務探しに明け暮れていた。今日も、一つ面接を終え、帰宅する途中の公園で油を売っていたのだ。
 家へは、帰りたくなかった。つい一ヶ月前までは穏やかで、これまで大した支障も出なかった家庭が、自分のリストラ騒動の件で、急転直下にぎすぎすと不穏な空気を漂わせているのだ。妻はイライラと落ち着きがないし、息子は以前にも増して、親と場を共有するのを意識的に避けていた。一つの暗転がもたらした結果は、意外なところにまで、侵食する。
「何か、用ですか?」
 俺は、数年前から白髪の目立ってきた髪を掻きながら、言った。俺の座っているベンチの前に立っているのは、この場にそぐわないことに、すらっとした細身の若い女性である。いや、若い、というか、まだほとんど少女の範疇だろう。高校一、二年生が妥当なところだろうか。背丈はそれなりに高いが、顔つきがまだ柔和で、大人になりきれていない。際立った特徴もなく、痩身で少々丸顔であるという点を除けば、どこにでもいそうな普通の女の子である。
 ただ、一つおかしな点をあげれば、その少女は、大抵の女子高生が手で弄んでいる携帯電話の代わりに――白い杖を、その華奢な手に、ぎゅっと力強く握っていることだった。
 少女は、訝しげに質問した俺の前で、ぴっと姿勢を正す。
「浜下さんですね。わたし、橋田美香といいます。橋田の娘です」
「橋田?」
 予期せぬ名前が出てきたことに、俺はしばし呆然としながらも、少女が不恰好に持った杖を見て、察するところがあった。口をついて、言葉が出る。
「白杖……?」
「ええ、そうです。よくご存知ですね、あまり知名度は高くないかと思いますが」
 白杖とは、視覚に障害のある人が使う杖のことである。俺は思わず、美香の顔についている、二重の瞼をじっと見つめた。すると、美香は見えずとも何かを感じたのか、ふふっと小さく笑ってみせる。笑うと、もっと幼く見えて、中学生といわれてもおかしくないぐらいだった。
「見えてませんよ。真っ暗、です。浜下さんの顔も見えない」
 そういうわりには、美香は俺の顔を真正面から見据えている。にわかには信じ難い。けれど、それだと矛盾する点があるということに気付いて、俺は首をひねった。
「じゃあ、どうして俺が分かったんだい? 大体、君とは初対面のはずなのに」
「お父さんが」美香はちらっと後ろを振り向いた。俺もつられて、美香と同じ方向へ視線を向ける。そこには、公園の出口の方に、背広で佇む橋田の姿があった。職場ではよく軽口を言い合い、一ヶ月に一度は共に酒を飲んだ仲である。しかし、向こうも顔を合わせ辛かったのか、会社を出てからは、一度も顔を合わせていなかった。
 ああ、と俺が頷くと、美香は緩めていた頬をきゅっと引き締めて、俺の鼻先に突然、頭を垂れた。咄嗟のことに目を白黒させていると、美香はそんな俺などお構いなしに、
「ごめんなさい」と、言った。
「何のことだい?」
「わたしのせいなんです。あの、わたしが両目を失った事故は、偶然のものじゃなかった。わたし、ちょっと友人にそそのかされて、無免許なのに、バイク乗ってたんです。初めて乗ったくせに、びゅんびゅん飛ばして。しかも――お酒も、飲んでました」
 俺は、言葉が出なかった。美香の告白は、何かを懺悔するようでもあり、俺はそのどうしようもない切迫感に、思わず耳を塞ぎたくなるぐらい、動揺していた。美香は続ける。
「無免許で、スピード違反で、飲酒運転。これで、事故を起こさないはずがありません。気付いたらわたしは車と真っ向からぶつかって、何かの破片が突き刺さって、両目とも一生、光を失った。けれど、自業自得なんです。他の人は、何にも悪くなかった。なのに――」
「いや」俺は美香の視線を受けることが痛くて、知らずのうちに、顔を横へ背けていた。向こうには見えていないのだ、と分かってはいても、微かな憂いを浮かべているその瞳は、まるでそれらを感じさせない。生きている。彼女の目は、立派に。
「俺は、いいんだ。別に誰が悪い訳じゃない。自分のせいで、俺にまで被害が及んだと危惧しているなら、そんな馬鹿な考えはすぐに捨ててくれ。大丈夫だよ、君は悪くない」
「でも、わたしのせいです。わたしが、」
「君のお父さんは、なんと言ってた?」
 美香の言葉を遮って問い質すと、彼女は一瞬息を詰まらせてから、しどろもどろに声を絞り出した。
「許す……って。お前は悪かったかもしれないけど、こうして十分すぎるほどの報いも受けている。だから、今更気に病むことはないって。大事なのはこれからで、これまでじゃあ、ないって」
 これからで、これまでじゃない。これまで通ってきた道が崩れ落ちたところで、まだ先に道は続いている。そこで奈落の底へ落ちたわけじゃない。俺の視界は、暗くなってなど、いない。本当に暗闇しかなくなってしまった美香が、それでも、その瞳の奥に何かを光らせているように。
 恐らく、自分も、下じゃなくて、前へ進んだのだ。そんな単純なことすら気付かなかったことに、俺は少し自虐的な笑いを浮かべながら、言った。
「それじゃ、俺からも、アドバイスだ」
 人差し指を、一本、立てる。美香は、ちょっとだけ首をかしげた。
「大事なのは、失敗を繰り返さないこと。君は、痛い目にあって、しっかりと学んだろう。何が良くて、何が悪いのか。自分の失態が、後に、自分以外のどれだけの人に、影響を与えるのか」
「それは――」言いかけて、美香はゆっくりと首を縦に振った。
「なら、これからの中で、同じ過ちをしなければ、それでいい。自分で体験して学ぶなんて、こんなに身に染みることはないだろう。君は、もう分かっている。なら、それを生かせばいいんだよ。これから、で」
 俺だって、伊達に四十年も生きてきたわけじゃない。様々なことを体験した。経験した。それらが無駄なものだったと全て放り出し、今までの日常が壊れたからといって過去の思い出を馳せて嘆くのは、まだちょっと、早い。自分の人生は、まだそれなりに、道がある。
 美香は、俺の根拠のない言葉に、それでも真意になって何度も首を動かしてくれた。俺は、自分のどこからこんな台詞が飛び出したのか、少しだけ不思議に思いながらも、どこかポジティブな気持ちになって、橋田のいる方へもう一度顔を向ける。橋田と、目が合った。彼は、寂しげな笑いをかけてきた。
「お父さんが呼んでるよ」
「あ――」美香はふっと視線を上げて、ごめんなさい、と言いかけた口を、ご、の形で止めた。それから、何かを吟味するように思索の表情を浮かべてから、今度はきっちりと言葉を紡ぐ。
「ありがとう、ございました」
「さようなら。お大事に」
 最後にぺこりと頭を下げて、美香は白杖を付きながら、父親の待つ方へとゆっくり歩き出す。俺はそんな彼女の背中を見送りながら、ふうっと細長い息を吐いた。
 まだ、やる気があるのなら。まだ、こんな俺でも、やっていけるのなら。
 ――妻と息子が待つ、真っ白い賃貸マンションの自宅に、帰ろうと思った。

fin
(2008.04.24)

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