ドレミファソラド

一つ飛び越えていることに気付いたのは、その音を耳にし始めて大よそ二週間が経った頃だった。
 その音というのは、何個かの切れ切れな音符の羅列だ。私は特別耳が肥えている、というわけでもないから、音色だけを聴いて楽器を当てたり、音階をすらすらと言えたりはしない。しかしさすがの私でも、その音が発せられている楽器は、ほとんど確信に近い予想が付いた。
 この世で最もメジャーな楽器、ピアノ独特の音である。
 音はいつもの朝、私が眠い頭と足を叱咤させ、自宅から歩いて十分のバス停に向かう際に、とある一軒の家から聴こえてくる。私はピアノの音が耳に入ってくる以前から、この家のことを少しだけ気にしていた。その家の屋根は、東北で雪が落ちやすいように工夫される、特徴的な急斜になっているのだ。その、こちらの地方ではあまり見かけない屋根の形が、どことなくカントリーな印象を醸し出していて、住宅街の中でこの家だけが別の空間でぷかぷかと浮いているようだった。
 そんな、ちょっと洒落た家から流れてくるピアノの音色を、少し想像してみて欲しい。
 こげ茶色でレンガ風に組み合わされた急な屋根、クリーム色の外壁に、多彩な色が使われた鮮やかなガーデニング。入り口は西洋の城門の縮小版のように、黒い棒が何本も並んで組み合わされている扉で、あちこちに散らばる装飾が楽しい。外から見ただけではあるが、庭へと続く道には赤レンガが敷いてあって、周りにはじゃらじゃらとした音の鳴る細かな石が地面を覆っていた。和風と洋風を一緒にしたコントラストな歩き道は、どこかほっと一息つけるような、穏やかな安心感を誘う。
 素敵な家、である。歩いている最中に、誰もが思わずちらりと横目で見てしまうような、そんな家だ。だからこそ私も、寝起きで重い足を動かし、ほとんど何も考えていない空白の頭の中で、毎朝この家を眺めていた。どんな人が住んでいるのだろう、という他愛のない空想だけで、揺れるバスの車内を過ごしたことも何度かある。
 だからこそ、普通そんな家から流れてくるピアノのメロディーといえば、滑らかで、透き通っていて、とてつもなく上手いというわけではなくとも、何となく心身に感じ入ってくる――そんな想像を、誰しもが抱くだろう。実際、私も歩いている最中に始めの一音を聴き取ったときには、少なからずはっとさせられた。そこから続いていく音節が、純粋に楽しみでもあった。
 ところが、である。先にも語ったが、このピアノの旋律は、少しだけ誇張に表現するのであれば、いわば「羅列」だった。それも、切れそうになった蛍光灯が点滅を繰り返すかのような、切れ切れな音の重なり。
 まず始めに、「ド」の音が鳴る。そこから二秒ほどの間を空けて、「レ」。そしてまた、今度は五秒の空白を保って「ミ」。次は一秒の後に「ファ」、七秒の後に「ソ」、四秒の後に「ラ」――。
 その家から、ピアノの音として聴こえてくるのは、そんな未完成な音の連なりだけだった。一応音階の並びをもじってはいるが、断続的に一音ずつ切れ切れに流れてくるので、全く一貫性がない。続けて聴いていても、それらは私の頭の中で一直線には決してならなかった。ばらばらのパズルのピースを、部分も繋げずに放置して、そこから一個ずつをゆるゆると広い取っていくような、それらを「ピース」、つまり「音」として認識することが難しい、数多の欠片。
 とある一日を境にして、それまで静寂の中にあった住宅街には、毎朝そのどこか不可思議なピアノの音が聴こえてくるようになった。それも六時やら七時といった早朝だから、道行く出勤、登校途中の人々は、みんな一様に首をかしげた。こんな朝早く、下手くそなピアノを毎日懲りずに弾いているのは一体どこの誰だろう、という当然の疑問だ。
 しかし、慣れというのは恐ろしいもので、それらが聴こえ出して三日も経つと、大方の人はそれらを日常としてとらえるようになった。音が聴こえてきても、ああまたか、と思うことすらしない。毎朝、顔を洗ったり歯を磨いたりするのと同じレベルで、無意識の下に収めて習慣化してしまったのである。日本人の順応能力は、時々呆れさせられるほど性能がいい。
 だから、これは言い訳になるかもしれないけれど、それでも、私とて周囲と同じように、その旋律を日常の中の一風景と見ていたのである。耳を尖らせて聴いていたのは始めの二、三日がせいぜいで、それからは鼓膜までは入ってきても、脳内にまでは伝わらない、そんな扱い方をしていた。
 気付いたのは、その日、私が聴こえてくる一つ一つの音に、改めて耳を傾けたからである。
 「ド」が流れる。「レ」が震える。「ミ」がテンポを切る。「ファ」が鳴らされる。「ソ」が跳ねる。「ラ」が浸透する。また、「ド」が先ほどよりも高く響く。
 断続的でも、その欠落は明白だった。どうしてこんな事実に、毎日聴いておいて二週間も気付かなかったのか、私は自身が不思議にさえ思った。人生の中で音楽との接点がほぼ皆無だとはいえ、これは人間の常識の範疇にどうどうと収まる類の、抜け落ちだろうに。
 始めそれに気付いたときは、今日だけ、たまたまの歯抜けなのだと首をひねっただけだった。しかし次の日も、そのまた次の日も、よくよく聴いてみれば同じ欠如があったのだ。だとすれば、これは初日からそうであったのだろう、と考えるのが妥当に思える。
 ――「シ」は、どこへ行ったのか。「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・ド」では、一繋ぎの音階としては、不十分なはずなのに。「ド」で始まり、「ド」で終わる一スケール、通常八音が並んでいるはずのそれが、このピアノの場合は、七音しかない。
 気付いてしまうと、どことなく意識してしまうもので、私は来る日も来る日も、この少し外れた音階に耳を傾けた。始めの「ド」から終わりの「ド」まで、ああ今日も「シ」は見つからないなあ、と半ば落胆しながら通り過ぎる。最後の「ド」が来てしまうと、ピアノはまた、一オクターブ下がった「ド」から始まるわけだが、私がその家の前を通り過ぎるわずかな間には、一音階分の音しか聴くことができない。一度ぐらい、立ち止まってじっくりと何スケールか味わいたかったが、出勤時間の制限がある手前、そうそう呑気なこともできなかった。   
 一週間も二週間も、この「シ」抜けのピアノを聴くうちに、私はだんだんと、持ち前の好奇心が頭をもたげてくるのを感じた。それは、どうして「シ」だけがいつもないのだろう、という当たり前の疑問でもあったし、何度も考えた、誰が弾いているのだろうという誰何でもあった。その音は、いくら聴いたって一向に上達する気配は毛の先ほどもなく、ただ一音ごとの間に挟む秒数だけが毎回異なるだけで、ずっと、少し狂想的なぐらいに、たどたどしい音階を繰り返した。
 ――そして、その日。私は直々に、そのささやかな疑問の、実情を知ることとなる。
 ようやく初夏に入ったのか、涼風が緩やかに通り過ぎて髪の毛を揺らすような、春の清々しさとはまた別のうららかさを感じさせる一日だった。だった、というのは私がもうその日の大半を終えていたからで、薄汚れた街頭の光に照らされながら、私はバス停からの帰路を辿っていた。季節柄、ようやく顔を覗かせてきたのだろう小さな羽虫が、何匹も束になって街頭の周りを飛び回っている。暗がりの中で、そんな虫たちの姿だけが、妙に目立っていた。
 当然、私の自宅は一つしかないわけだから、帰りも通勤と同じ道を通ってくる。だから、件の家も一日に二回、目にするわけだが、これまで帰途にその音を耳にしたことは一度としてなかった。それらが、まだ緊張感のある、鋭敏な空気にのっかって私の鼓膜を震えさせるのは朝だけで、一日の疲れをたっぷりと吸い込んだ暗く緩んだ空気の波には、ピアノの音色は流れてこない。
 常日頃と同じで、その日も私は仕事でぐったりと疲れ切り、スーツをいくらか崩した形でだらだらと歩いていた。その日は月がこうこうと輝く夜で、仰げばいくつかの星もちらほら見える。半分切ったカマボコ型に、少し肉付きがついたような月の形は、下に広がる暗闇の世界を、それとはなしに照らしていた。その月光と人工の蛍光の灯が重なり合い、私たちの住む風景は、何やらいびつに歪んでいるように見えた。
 そんな中で、その音は、突然、私の耳朶を震えさせたのである。まるで私は、懸想する女性の声でも聴き取ったかのように、その細い響きを、驚くほど敏感に掴んだ。鼓膜に入った音は、滑らかに私の聴覚をくすぐり、神経を駆け、脳内に届けられる。
 ――「ド」、「レ」、「ミ」、「ファ」、「ソ」、「ラ」――、
「こんばんわ」
 不安定なピアノの音に混じって、暗がりから発せられた突然の人声は、私の肩をびくりと強張らせ、同時に足も停止させた。少々丸い目をしつつ、声のした方を見てみると、その人物はまさに、ピアノが聴こえてくるその家の門をくぐり抜けてくる。声の調子から女性だと察しがついていたので、私は必要以上に緊張し、彼女が街頭の下に現れるまでの間が何十秒にも感じられた。異性と接することは、私にとって昔からの苦手の一つなのである。
 実際数秒にも満たなかったのだろうが、私にとってはようやく、その女性は光のある場所へと姿を見せた。白いワンピースに身を包んだ、まだ二十歳前後であろう、若年の女性である。私と、五歳ほどは違うだろうか。黒く、若干ウェーブのかかったセミロングの髪の毛が、彼女に落ち着いた印象を与えており、その分だけ大人らしく見える。しかし、頬に浮かんだ柔和な笑みは、まだ十代のそれと等しかった。
「あぁ」うろたえた私だが、なんとか喉から声を絞り出す。「――どうも、こんばんわ」
 私がつたない挨拶をする間にも、ピアノの音はいまだ止んでいなかった。朝と同じ、音階の羅列がふらふらと空気の破調に乗っている。繰り返し、繰り返し、鳴り続ける。
「あの、音」
 気付くと私は、頭の中で意識するよりも先に、喉元から声を出していた。自分で喋った言葉に一瞬ふっと失言する私だが、女性が穏やかに「はい」と返答してくれるので、ここで黙るのもいけない。今度は、少なからず言葉を選びながら、私は続ける。
「毎朝、弾いていらっしゃいますよね」
「ああ……」彼女は、少し虚を付かれたかのような表情で笑いをすうっとひき、
「そう、ですね。マヤのピアノ」と、言った。
「マヤ?」
 突然現れたその名前に、私が反応して問い返すと、女性はええと頷いた。
「私の妹です。いつもすみません、騒々しくて」
「いえ、別にそんなことは」この音のどこが騒がしいというのだろう、と私は自問する。時々耳に入ってくるだけで、自動車の音の方がよっぽど耳に痛い。
 それから数秒の間沈黙があり、それまで特別な接点もなかった通りがけの通行人と家人の間で、何の会話をすればいいのか、彼女も少し悩んでいるようだった。一方私はといえば、元来からの疑問を、思いがけないチャンスであるこの場で解消させるべきか、下手な好奇心を晒すのも失礼だろうか、と内向していた。しかし、私の中でこのピアノの音に関する興味の幅は大きい。結局、脳内で言葉を組み立ててから、私は口を開くことにする。
「あの、ピアノって」
「はい?」女性は、きょとんと目を丸くした。そうしていると、急に幼く見える。私はそんな彼女を暗闇の中で眺めながら、
「『シ』の音が、いつも、抜けていますよね?」
 言うと、彼女はくりくりとした目をぱちりと一度瞬かせ、「ああ」と頷いた。そうですね、と続けるが、それがどうかしたのかという困惑が、彼女の表情に見て取れる。どうやら彼女にとって、私が疑問に思ったその事実は、何の玄妙さも持ち合わせていないようだった。少し焦れったくなりつつも、私はなおも尋ねる。ピアノの音はまだ聴こえており、その音階もまた、完璧ではなかった。
「どうしていつも、『シ』だけが、ないんですか?」
 私の質問に、女性はいまだ目をぱちくりとさせていたが、やがていくらか首をかしげて長い髪を揺らしながら、「それは」と言った。
「それは――マヤの指には、少々欠陥がありまして」
 今度は、私がきょとんとする番だった。背筋にぴりりと鋭い線が入るのを感じる。
「あの子は」しっかりとした口調で、彼女は言った。「あの子には、薬指が、ないんですよ」
 その言葉を喋った彼女の声は、まるで今日の天気の話でもするかのようで、私は不謹慎にも、幾分かほっと安堵してしまった。私が下らない質問をしたばかりに、喋らなくてもいいようなことまで喋らせてしまったのは、全くもってこちらの不手際だが、それが彼女にとってタブーであり、見るからに暗鬱な気分になられたらもっと胸が痛い。
「あなたは、ピアノを弾かれますか」
 閉口していた私に、女性はやんわりと訊いた。多少うろたえつつも、私は「いいえ」と首を横に振る。男でピアノの経験歴がある者など、そうはいないだろう。私の答えに一度頷き、彼女は続ける。
「弾かれる方なら、すぐに分かるのでしょうけど――マヤがいつも弾いているのは、ハ長調のピアノの音階です。一番の基本、ドレミファソラシド、ですね。でも、この音階にはちゃんとした指使いがあるんです。そして、その指使い通りに演奏すると、薬指が使われるのは――『シ』の一音だけ、ですから」
「ああ――そう、なんですか」
 そういえば、と私は思い出す。昔ピアノを習っていた私の姉が、一度だけ、私にピアノの基本を教えてくれたことがあるのだ。あれはもう十何年も前、私がまだ小学生の頃だったとは思うが、曖昧ながらも記憶している。「ド」が親指、「レ」が人指し指、「ミ」が中指。だが、その後の「ファ」は、下から指をくぐらせて、親指を運ぶのである。そこからはまた人指し指、中指といった順番の運びで、確かに、薬指が重なるのは「シ」の一音だけだ。
「マヤはね」と、彼女はちょっとだけ頬を弛緩させて、言った。
「あの子はまだ、幼稚園にも満たない子供なんです。今年で三歳でしょうか、年の離れた妹でして。生まれたときから、天性的な奇形で、右手の指が四本しかなかったんです。あの子は物心付いた頃、指の長さで、薬指を『なくす』ことに決めたようですが……」
 なくすことに、決める。少し妙な言葉の使い方が、何だかとても皮肉に思えた。
「そんな指のコンプレックスから、いえ、私がやっていたからかな。とにかく、あの子は一ヶ月前頃から、ピアノの音に興味を持ち始めました」一ヶ月前、丁度この家からピアノの音が聴こえ始めた時期である。
「私が演奏する音を隣で座って、じいっと聴いていたり、聴きながら適当に指を動かしたりして。やっぱり四本だと滑らかにはいかないのか、あの子は指の動かし方が、とても不安定なんです。普段は左で物を食べたり、作業をしたりしているんですが、ピアノだけは両手を使いますから、そういうわけにもいきません。そうして、目の前にない鍵盤を必死に真似て動かそうとするマヤが、私、何だかとても愛しく思えてしまって」
 はは、と、彼女は快活そうな笑いを覗かせた。彼女と会話をしているので、それまでは耳の外側を通り抜けていたピアノの音が、急にまた鼓膜の中に流れ込んでくる。「ド」、「レ」、「ミ」と、私は内心でその音を反復させ、彼女の弾くメロディーに、勝手な応答を返す。
「上手く弾けないと、上手く弾くことはどれだけ練習したって叶わないとしても――やっぱり、教えたくなって、しまったんですよ。本当は、止めておいた方がよかったんですけど、ね」
 寂しそうに、嬉しそうに、彼女の表情はそのどちらとも、判別が難しかった。
「私も、大学に通うので忙しいから、あまり教えられる時間がなくって。そうしたら、じゃあ早朝にレッスンしてくれと、あの子がせがんだんですよ。朝早くなら、まだ外にあまり人もいないから、下手くそなピアノの音、誰にも聴かれずに済む――ってね」
「そう、ですか」
「ええ。あの子はあの子なりに、自分が上手くなれないと知っているんですよ。ちゃんと、自覚している。自分の指は上手く動かないから、ピアノも同じようには弾けないって。そして、だからこそ、それを他人に聴かれることを、あの子はある意味で、怖がっているんでしょう。ただ、それでも――弾くことだけは、止めたくないみたいだから」
 私の頭の中に、幼い彼女のイメージが浮かぶ。拙い指を必死で動かし、どれだけ間に時間を空けようとも、次の音を思索する、そんな彼女の姿。その想像が、今聴こえてくる音色とかち合い、一つの融合点を見つけて、重なった。
「ただ、やるからにはきちんと習いたいみたいで、指使いで薬指を使う箇所に対して、マヤは頑固に、そこを引こうとしないんです。他の指で補えばいい、いくらでも弾き用はあると私は言ったんですけれど――あの子は、自分には自分の音のカタチがあるからいい、と少ない語彙で主張して。だから私も、いつも横に並んでマヤの指の運びを眺め、時には注意を促しながら、『シ』だけには、目をつぶっているんです」
 ふふ、と可愛らしげに笑う彼女の顔が、どこかしら嬉しそうに見えて、私は思わず首をかしげた。この話の中に、嬉しくなる要素など含まれていただろうか、という疑問である。ピアノの音だけが静寂の中に響き渡る暗闇の中で、光が当たった彼女の笑顔は、やけに鮮やかに映った。
「今、弾いてる、マヤの音」彼女は、笑う。生ぬるい空気が頬をうち、彼女の笑いも風に溶ける。
「あれ――マヤが、今夜は初めて、一人で弾いてるんですよ。私が隣にいない、ピアノの前で」
 あ、と私は呆けた声を出した。本来ならば、この女性が私の目の前にいる時点で、気付くべきだったのだろう。けれど、その彼女の言葉を聞いた瞬間、私の耳の鼓膜を打ち続けるピアノの音調が、急に何かしらの変化をしたように思う。もちろんそれは、私の偏った色眼鏡がよるところでもあるのだろうが、もしそうだとしても、私にはそのメロディが、素直に、美しいと感じた。
「――きれい、ですね」
 私が普段そうそう使うこともない言葉を喉元から吐き出すと、女性はにこりと笑って、「ええ」と言った。その肯きの中には、彼女の妹に対するささやかな自慢が込められているようでもあって、私は無償に、この姉妹が微笑ましくなった。
「妹さんに」一介の通行人が言うには、少々、お節介のような気もするけれど。
「きれいだと――上手だと、伝えてあげて下さい」
 はい、と彼女は頭を下げる。「ありがとうございます」
 ピアノの音に、耳を澄ます。それは欠落を伴った、音階と呼ぶのさえ違和を感じる、そんな音だ。けれどそれらの内面は、驚くほどにしっかりとしていて、どれだけ強風が吹こうと決してなびくことはない。いつでも、その音は空気に乗り、風の間をすり抜けて、私の耳の中へ、すうっと滑り込む。私だけに限らない、この道を行く全ての人が、その音を耳にする。
 もしその音を聴くことが、当の演奏者に望まれていないとしても――その響きが下手だ、など、誰が彼女に言えるだろう。
「では」女性は、話の折りを付けて、そう言った。「引き止めてしまって、すみませんでした」
「いえ……こちらこそ」
 私が折れ曲がったネクタイを今更にいじりながら返答すると、彼女は最後にもう一度だけ、ふっと笑いを覗かせて、
「――お休みなさい」
 私は小さく頭を下げ、彼女と同じ言葉を、馬鹿のひとつ覚えのように反復した。彼女はそこで身をひるがえし、また門の中へと消えて行く。立ったまま微動だにしない私の眺める中、彼女は暗闇にすうっと溶け込み、やがて遠くの方で、ドアの軋む音だけが景色に流れるピアノの波長に混じった。
 そういえば、と私は思う。彼女は、どうしてこんな夜も遅くに、外に出ていたのだろうか。それも、私に声をかけるだけかけて、どこに行くでもなくまた家の中に戻ってしまった。彼女はどうしてわざわざ家を出て、見も知らぬ私に挨拶をしたのだろう。
 ああ、けれど、もしかしたら――彼女も、ちょっとだけ、誰かに確かめてもらいたかったのか。自分の妹のことを、自分の妹のピアノのことを、妹のピアノが決して下手ではないことを、そして――きれいだと、いうことを。
 自分が、妹にピアノを教えて始めてしまったことを、彼女はある意味で、怖がっているのかもしれなかった。どうせ向上しないのなら教えない方がマシだ、と、いつか妹の口から直接言われることに、彼女は恐れを抱いているのではないだろうか。だからこそ、私という第三者からの客観的な視線で、自分の行いを正当化させたかったのかもしれない。私は、自分は、間違ってはいないのだと。
 ただ、それでも――私が見た彼女の目には、後悔など、なかったから。
「どー……れー……みー……」
 聴こえてくるピアノの音に、私は歩を進めながら、こちらもたどたどしい口笛を重ねてみる。いつか「シ」の音が聴こえるようになったら、それはそれで私は驚くのだろうな、と思うと、それは何やら愉快なことのようにも感じた。
 結局のところ――やはり、洒落た家から漏れてくるピアノの音というのは、透き通った美しい色を、奏で続けているのだ。
 私は暗がりの中でそう思い、遠ざかるその音に、お休み、と小さく呟いた。 

fin
(2008.06.08)

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