ハトとオリーブ

「平和の象徴というわりには、奴らはちょっと、乞食っぽい」
 指の間に吸いかけの煙草を挟んでのんびりと煙をくゆらせながら、鷺谷は唐突に、そんなことを言った。夕方の、赤い空気の中に溶け込んでいく白い紫煙に何となく目を奪われていた私は、いきなり吐き出された鷺谷の言葉に、何のことだと首をかしげてみせる。鷺谷が時々妙なことを口走るのはいつものことだが、私は今だ、彼が持つ独特の調子に慣れずにいた。駅前広場のベンチに二人、他にはあまり人もいない。
 私の困惑した視線に気付いたのか、鷺谷は茶色く染め上げた髪の毛を無造作に掻き乱しながら、「あれ」と歯軋りでもするかのような声を出して、前方を顎で指した。その方向の先にいるのは、赤い目と灰色の羽毛を持った、野生鳥の集団。何羽もが夢中で首を垂れ、市松模様のコンクリートタイルの隙間に埋められた菓子の欠片を、必死で突付いている。その姿は、小さいながらも何かの狂騒さを感じさせるようで、私は彼らのギラギラと輝く瞳から、目が離せなくなった。普段見慣れている光景のはずなのに、鷺谷の「コジキ」という言葉が頭の中でわんわんと鳴って、視界を大きく歪ませる。
「ねえ、サギ」
 何とか視線を剥がして呼びかけると、彼は「なに」と平淡な口調で問い返しながら、私の方を振り返った。サギ、というのは鷺谷の通称で、彼を知っている者は大抵、そのあだ名を使う。元々の発案者の意図を汲めば、「鷺谷」という苗字と詐称の「詐欺」とをかけた、軽く揶揄めいた愛称だったらしい。だが、当の本人がそういった冗談に全く無頓着なのをいいことに、この呼称は使われ続けているのだそう。
 私は、鷺谷――サギの、こちらに向けられた細く切れ長の淡い目に、若干睨まれているような心地になりつつ、言葉を続けた。
「乞食って、それは」ふっと、私はまた彼らを見やり、「――ハトのこと、だよね?」
 それ以外に何があるんだ、とサギは無感情に応答した。「道行く人間に対して、あいつは乞食っぽいな、なんて感想を誰が吐くんだ。今の日本の世の中じゃ、そんな言葉は日常会話の中には登場しないだろ。それに、人間の内の誰か一人が平和の象徴だっていうんなら、それは戦時中の愛国心と変わらない……アズキ、俺がセンソー嫌いなの、知ってたっけ?」
「うん、前に聴いた。サギはヘイワ主義者だって」
 アズキ、というのは私の呼び名だが、これもまた、サギと同じで本名をもじって付けられたものだ。私の苗字は、小倉。だからそのまま、小倉、あんこ、アズキ。誰が最初に言い出したのかはもう忘れてしまったが、単純すぎることを除けば、私はこの愛称をなかなか気に入っていた。おかげで、昔から下の名前を使われることはほとんどないが、周囲から「アズキ」と呼ばれて悪い気はしない。
「平和主義、って訳じゃないけど」サギは不貞腐れたように言う。「だってさ、世間一般に、カラスなんかは不吉の予兆って言われてる。カラスが鳴くと死人が出る、なんて迷信まで出回ってるぐらいだ。黒猫が横切ると悪事が起こる、っていうのも、同じ。ああいうのは多分、人間が『黒』って色に対して、過剰な幻想を抱いているからなんだろうね。黒は、凶兆の表れ。だから黒い色した動物みんな、何となく、縁起の悪いってイメージがくっついてるんだ」
 一度口を開くと、サギは案外饒舌になる。淀みなく溢れてくる、少しだけハスキーな調子を含んだ滑らかな声は、聴いていて耳に心地いい。相変わらず、先端からぱちぱちと赤い光の覗いている煙草をくわえながら、サギは目にかかった前髪を、細白い指ですっとよける。煙草から立ち昇った煙は、もう九月に入ったくせに今だ生温かい夕暮れの風になびいて、時たま、私の鼻腔をくすぐった。
「でもさ」と、サギは続ける。「でも、ハトって、そこらへんにいるのは大体灰色だろ。白いのなんて、テレビの中でしか見ない。思いっきり黒も混じってるくせに、奴らだけ平和だなんて解せないよ。何だか、カラスがかわいそうだと思わないか? 同じ鳥なのに、落差がありすぎる。カラスは確かに見ていて胸騒ぎのする外見をしてるけど、その中でも三本足の八咫烏なんかは神様だし、日本サッカーのシンボルマークになってるのも、有名な話だし……」
 屁理屈をこねくり回して、顔には出さないけれど必死にカラスの弁護をするサギを見ていると、私は何だか愉快な気持ちになった。語尾をすぼめながら、サギはほとんどが灰に変わって短くなった煙草を、脇に置いた携帯灰皿の中にぽとりと落とす。これはいつも私が感心するところなのだけれど、サギはその年代の若者がこぞってポイ捨てするのだろう煙草の吸殻を、決して地面に落とそうとはしない。以前、これに対して私が「律儀だね」と言葉に出して褒めてみせると、サギはきょとんと目を丸くして、「だって地面に吸殻なすり付けて、地球に悪臭がついたら困るのはコッチだろ」などと大真面目で言い、その言動は後々内輪での笑いの種となった。
 サギはふん、と鼻を鳴らして、
「とにかく、ハトは乞食みたいで、乞食である以前に――詐欺師でもあるんだ」
「詐欺師?」
 突然出てきた単語に、私は目をぱちくりとさせてサギを凝視した。サギの口から詐欺などという言葉がこぼれても、皮肉か自虐ぐらいにしか聞こえない。だが、サギの方はそんな私の思惑など全く無視して、そうだよと唇を歪ませながらやけに重みのある口調で言う。
「ハトは平和の象徴だ、というのは有名な話だ。けど、じゃあアズキ、その平和の由来がどこから来ているか、知ってる?」
 問われて、私はううんと考えるをフリしながらしばらく黙り、目を遠くへやった。すると、先ほどまで何十羽と集まってせわしなく動いていた鳩の群れが、いつの間にか数羽にまで減っている。どうしてだろう、と半ば興味本位で辺りに視線を這わすと、少し前まで鳩が一斉に餌をついばんでいた広場脇の草むらに、赤色のキャップ帽を目深に被った、幼い少年が立っているのが見えた。まだ七八歳だろう少年は、白い肌をした右腕をくいっとあげ、ゆっくりと頭の上まで持っていく。
その手には――石?
「あっ……」
 見とがめて、思わず大きな声をあげてしまう。すると、少年は私の叫びを聴きつけたのだろう、ぴたりと腕を止めて、一瞬帽子の下でちらりと私の方へ首を動かし、それからサギを見て何やら目を丸くした。しかし、その後にはすぐにぱっと顔をそむけて、駅の方へ走り去る。
 口をぽかんと空けながら、少年の背中が消えていった方向を見つめていると、唐突に隣からこつんと頭を小突かれた。「痛ッ」と反射的に呟くが、実際にはただ当たったというだけで、感触以外には痛くも痒くもない。それでも抗議的な視線で小突いた張本人を睨んでやると、彼は私を小馬鹿にでもするような呆れ顔で、ゆるりと首を横へ振った。
「違うよ」サギは、諭すように言う。「違う。あれは、鳩に向けたものじゃあない」
「どうして分かるの」断固とした口調のサギが、私を諌めるためにいい加減なことを言っているのでは、と疑心を抱いた。「――どうしてサギが、そんなこと」
「だって、もしあのガキが石を投げていたとしたら、俺たちの耳にその音が聴こえてたはずだろ? それに、ガキの手の中に石があった時点で、ハトは大方いなくなってた。どうせハトをいじめるために投げるんなら、もっとたくさん集まってる時の方がいいに決まってる。数羽の中に投げ込んでも、逆に空しいだけだよ」
 サギの言い分は一見合理的だったけれど、頭を働かせてよく考えてみると、あまり筋が通っていない。何だか言い訳がましいなあ、と私は口の中で呟きながら、「それだけ?」とサギをせっついてみる。
「ああ、まあ、それだけって訳じゃないけど」
 サギはふっと少しだけ頬を弛緩させて、幼い子供が何かいたずらでも思いついたかのような顔で、言った。
「俺はさ――分かるんだよ」また広場に集まってきたコジキたちを遠目に眺め、サギはゆっくりと、あやふやで形のない自信に枠線でも付けるかのような声で、「――分かるんだ」
 その、地面にぺったりと足の付いた意思を感じさせるサギの言葉に、私はちょっとだけ、怯んだ。けれど後には何も言えず、ただ「そう」とだけ頷いておくことにする。今ここで、サギの中にある何かを私の一言で壊してしまうかもしれない、という恐れが、私を閉口させた。こんな時に、何かを言えという方が、無理な話だ。
 サギの内面にはどうやら、私と同じ世界に生きているくせに、ぐるぐると大袈裟な抑揚をつけて流れるメロディーラインに乗って、現実とは少しだけ色の異なった、別のセカイが流れているらしかった。一緒に見ている景色も、私の視界に映るそれとは、若干違うのかもしれない。きっとサギの真っ黒な瞳の中では、ハトがコジキになって、ポイ捨てされた吸殻は悪臭袋になって、人間はみんな心だけが透けて見える透明人間にでも見えるのだろう。
 ――サギは、私とは、ちょっと違うバショにいる。
「アズキ、そういえば」
 ばさり、という音が鼓膜を揺らして、私とサギの目の前で鳩が一羽、飛んだ。赤い目と灰色の体、薄汚れた翼を小刻みに動かして空中へ浮かんでいく鳩の姿は、どうせ数メートル場所をずらすだけだろうにびっくりするほど一生懸命で、何だか見ていて呆れてしまう。そんなに餌が欲しいのかな、こいつ。人間に媚びを売ったって、最近のヒトって、あんまりそういう気分じゃないと思うよ。
「なに?」
 鳩から目を逸らして、サギを見る。サギも私と同じ鳩を眺めていたようで、まだ視線を前方に揺らしながら、彼はぽつりと口を動かした。
 ――お、り、い、ぶ。

   *  *  *

「オリーブ、って言ってたの」
 サギの顔を思い出しながら、私はソファにダイブした。ぱふん、と綿の詰まったソファが緩い音を鳴らして、私の体を受け止める。ソファには髪の毛が散らばっていたり、香水の匂いが染み付いたりで、あまり気持ちよくはなかった。ふかふかなのに勿体ないなあ、と少しだけ考え、そういえばこのソファは中古品なのだっけと思い出す。前の所有者も、女性だったに違いない。
「オリーブ、ハト、とくればさ」リョウは風呂上りで濡れた、ブロンドの長い髪の毛をタオルで無造作に拭きながら、ダイニングの椅子にどっかと座る。細くて、顔とスタイルだけはいいくせに、こういうところでリョウは妙にガサツだ。男の前でも平気で、同じことをする。
「くれば、何なの」
「アズキ、分からないんだ」化粧が落ちても長い睫毛をぱちぱちと瞬きさせて、「ハトと、オリーブ――ノアの方舟のことでしょ、それ」
「ノアノハコブネ……」片言のように呟きながら、私はソファに埋めた顔をぐいっと動かして、リョウを見た。リョウは本名を亮子といって、私の少ない友人のうちの一人だ。付き合いはサギと同様まだ長くはないが、元々彼女がまさに竹を割ったような性格をしている分、大方気軽に話し合える。
 サギと別れた後、私は何となくもやもやとしたつまらない気分になって、そのままの足でリョウのアパートを訪ねた。リョウは突然にインターホンを鳴らした私を見て、うちは迷子センターじゃないよとぼやきながらも、結局扉を開けてくれた。リョウはそういうところが甘くて、そういうところが、良い友人だ。
「ノアの方舟物語。旧約聖書の『創世記』に出てくる、大洪水のお話。聴いたことぐらいあると思うけど。ノアの洪水、っての」
「うん」あまり性能のよくない脳の引き出しを掻き回し、私は肯いた。「で、それがどう、ハトと繋がるの?」
「無知っ子アズキちゃん」
 リョウは、私の方にびしっと人差し指を突きつけて、片頬を歪めた。
「ノアの方舟。神のお怒りで大洪水が起きます。それを知らされたノアは、事前におっきなハコブネを作りました。ノアはそのフネに、家族と動物を乗せました。洪水はずうっと続いて、四十日ぐらいで終わったのだけれど、終わったかどうかが分からない。なのでノアは、ハトを放した――」
 リョウはそこまで話すと唐突に席を立ち、小さなクーラーボックスから缶ビールを二個取り出して、ソファから起き上がった私にそのうちの一個を放り投げた。わっ、と慌てながら、私は何とか手の中にそれを収める。手の中がひんやりとして、指の間が湿った。
 プルタブを引きながら、リョウは続ける。
「そして、ハトは戻ってきました。そのハトは、口に、オリーブの若葉をくわえていました。それでノアは、洪水の水が引いて、乾いた大地が現れたことを知ったのです。チャンチャン、おっしまい」
「それで、平和の象徴?」
 私はビールを一口ごくりとやってから、リョウに尋ねる。本音を言うと私は、あまり発泡酒は好きではないのだけれど、何となく、飲まなきゃいけないと思った。喉がじわりと焼かれていく感触が、眠気を覚ます。目の端が変に痛かった。
「そう。だから、オリーブの花言葉も、平和とか知恵って意味を指してる」
 ふうん、と私は頷く。リョウは容姿に全く似合わない豪快さでビールを煽って、「それにしてもさ」と言った。
「サギ、そこまで言っておいて、答えを教えてくれなかったわけ」
「うん。何か急に用事ができたって言って、行っちゃった」
 リョウは苦笑して、「相変わらずだねえ、あいつも。アズキも、あんな変人とよく付き合ってるなあ」
 さりげなく言葉の端に組み込まれた言葉に、私は思わず、酸味の疼く喉を詰まらせた。こほんと小さく咳きをすると、リョウが面白そうな目で私を見てくる。からかわれているのだ、とは分かったが、それ以外に何を言えばいいのかが分からなかった。
「別に」口調を尖らせるのも、馬鹿らしい。「付き合って、ないよ」
「でもアズキちゃんはサギが好きだ」まるでそれが世界の常識でもあるかのような調子で、リョウは笑いながら言う。「好きだから、ハトに同情して、オリーブが気になるんだ」
 リョウの言葉があまりにも断定的だったので、反論するのも面倒になり、私はそうかもねと小さく呟いただけで閉口した。苦い発泡酒がそのまま胸を焼いて、そこでぐるぐると渦巻く白いもやもやまで、炎で焦がしてしまえばいい。そんなことを考えながら右手を心臓の位置にやると、熱いとばかり思っていたのに、なぜだかとても冷たくて、私は少しだけ驚いた。
 手の中で半分ほどに減ったビール缶を、両手でぎゅっと握り込む。外側は汗をかいてぬるくなってきているのに、押し付けた指の先だけに、ちくりと刺すような冷たさが走った。アルミ缶が、私のかけた重圧に押されてへこみそうになり、慌てて力を緩めると、急速に温かさが戻ってくる。
「でもね、アズキ。これだけ、言っておくけど」
 リョウは足を組み直して、睫毛の長い目で私をじいっと見据えた。
「サギは――あいつには、気を付けた方がいいよ」
 どうして、と私は尋ねる。何だか今日は「どうして」とばかり言っているような気がして、そんな自分にほとほと嫌気が差した。
 リョウはふっと、それまで緩んでいた表情を消して、
「あいつは……嘘つき、だから」
「うそつき?」私は呆けた顔で繰り返す。リョウは、それ以上は何も言わず、壁にかかったアナログ時計をちらりと横目で見やって、ロングの髪の毛をさらりと振った。まだ湿っているのか、リョウの髪の毛には全体的に艶が残っていて、蛍光灯に反射する金色が綺麗だった。
「ねえアズキ、あんた今日、ここに泊まるつもり?」
 リョウの言葉の意味を考えていた私は、突然の問いかけに「え」と目をぱちくりさせながら、時計の針を確かめる。まだ八時とか九時だろうとばかり思っていたのに、実際の時計は、もうすぐ十一時になる時刻を示していた。カチ、カチと室内に響く確かな秒音が、私の鼓膜を空しく揺らす。嫌な音だ。
 そろり、と私は背中に冷や汗を垂らしながら、リョウを振り返った。リョウは呆れたように深い溜息を一つついて、すっくと椅子から立ち上がる。しなやかな動きなのに、リョウはわざと椅子の足を鳴らし、ふんと目を尖らせて私を見た。目は怖いけれど、口元は笑っている。
「宿泊料は、免除してあげるよ」
 ありがと、とぽつりと呟く。リョウは私の小さくこぼした感謝に気付いたのか気付かなかったのか、とにかく私の言葉などまるっきり無視して、空になったビール缶を振りながら、またクーラーボックスへと向かっていた。
 私は、今日はこのまま自宅へ帰らなくていいのだ、と思うと、どうにも体の芯が緩んでしまい、またソファに身を委ねて横になる。耳元で、リョウの言葉が耐えることなく、囁かれているような気がした。小さく、静かに、ゆっくりと。
 ――サギは、うそつき。
 それを、どうしてなのかと尋ねるべき相手が誰なのかすら、私には、分からない。

   *  *  *

「平和の象徴だから、コジキなのかもしれない」
 体の奥の方で生まれた文字が、つまらない文章になって私の唇からこぼれ出る。サギは昨日と色違いのしわがついたシャツを着て、唐突な私の言い分にきょとんと首をかしげた。夕方の日射が差し込む電車の中、がたんごとんと揺れる動きに体ごと合わせながら、サギは片手で掴んだ吊り革を強く引っ張り、ギィッと軋んだ音を出す。私はそんなサギを隣で見て、ふうっと息を吐きながら続けた。
「ああやって、餌を求めてコジキっぽくしているハトを見る。それを見て、私たちが餌をやる。餌をやっている間だけ、ヒトは、自分たちがハトより優位にいるって、実感できる。自分たちは誰かに、餌を媚びることはないんだ、って」
「優越感からくる、ヘイワ」サギはゆっくりと、発音の練習でもするかのような口調で言い、「それこそ、くだらない」
 一蹴されて、私は「そう」と呟き、肩を落とした。昨日リョウの部屋のソファでうとうとしながら、私はサギの言葉をずっと頭の中に反芻させていたのだ。私の脳内には、赤い目をぎらぎらさせた鳩が飛び交い、サギの吐いた紫煙が揺れて、昨日の石を投げようとしていた少年が、四方八方に走っていた。コジキ、ウソツキ、サギシ、ノア、オリーブ――普段はあまり使いもしない単語が、たくさんの渦を巻いて、私をひどく焦らせた。
 だから、少しだけ、考えてきたのに。下らないの一言で一蹴されては、さすがに、落ち込む。
「やっぱりハトはさ、詐欺師だよ」
 昨日の途中切れになった会話が、そのまま続いているような調子で、サギは言った。目の前で座席に座る中年のおばさんが、何の話だと訝むような視線を不躾に送ってくる。車内はそんなに混んでいるわけではないが、空席はまばらだった。ここにいる人みんなが私たちの話を聴ける、聴いているのだと思うと、私はどうにも気恥ずかしくなり、自然と声も弱まる。
「昨日、リョウに訊いた。ハトとオリーブと、あと、ノアのお話」
 ああ、とサギは笑った。
「そこまでくればじゃあ、ハトと詐欺師がイコールなの、分かるだろ?」
「分からない」サギの考えは、突飛しすぎる。分からない、という言葉を吐くごとに、私は自分が小さくなっていくような気がする。どんどん、サウナで溶けていく氷のように、急速に「私」が溶けていく。小さくなるのは構わないが、最後になくなって消失してしまうのは、やっぱり嫌で、怖い。
「だからさ、つまり」
 サギは握りこんだ吊り革に、更に体重を乗せて、引っ張る。ギィ、ギィッ、と吊り革が鳴く。
「ハトがオリーブをくわえていたら、それは確かに平和なのかもしれない。だけど、オリーブがない状態だったら、それは象徴にはならない。ハトとオリーブが、二つ共合わさってこその、平和だ。ハト単体で平和の象徴だなんて、そんなのは、詐欺だよ。詐称だ。ウソだ」
 ウソだよ――と、サギは二度繰り返して、私の顔を見る。私は、自分がその時どんな表情をしていたのか、分からない。ただ私の中では電車の音、吊り革の音、周囲の人々が雑談を交わす声、サギの声、とにかく私を取り巻く全てのものが、ぐるぐると混ざり合って、ただただ気持ちが悪かった。
 サギが私に視線を送る。私も、少しだけ首を傾けてサギを見る。彼の黒い目の向こう側に、私の顔があった。一瞬、誰だと問い質したくなる。凡庸で、個性がなくて、ぽかんと口を開けた馬鹿らしい女。
 サギの目には、自分がこんな風に映っているのかと、私はふいに思った。そしてその私の姿は、普段私が鏡で見る自身の姿と、なんら変わりないようにも思える。よく見ると、目の下にぽつんとある小さなホクロも、高校生の頃に間違って潰してしまったニキビの跡も、この前奮発して買ったちょっとだけ高価なマスカラの付け具合も、全てが毎日飽きるほど見慣れている、私のものだ。
 ああ、と私は何だかひどく安心して、息を吐いた。昨日会話をした時よりも、ずっと以前から私の内側にこびり付いていた泥が、その瞬間に一滴ずつの液体になって、すうっと流れていくような気がした。それは危惧であり、不安であり、答えは一直線で繋がっていたはずなのに、ややこしく絡まった色々な糸のせいで、どうしても辿り着かなかった終着点だ。
 サギも――私と、同じものを、見ているのか。
 そんなことに、今更気付いた。
「なあ、アズキ、でもさ」
 サギはふっとこちらから視線を外して、その目を車窓へと向ける。流れていく景色は、なぜだかひどく狂騒的で、何の音も立てていない風景のくせに、何やら豪快でスピード感のある音楽でも奏でているように思えた。車窓に切り取られた情景は、うるさい。そして、そのうるささを諌めでもするかのように、夕焼けの赤いカーテンが、景色全体を覆っている。
 目を細めて、照り返しを受けた車窓をぼんやりと眺めながら、サギは言った。
「みんなが、それを平和の象徴だと思っているならさ――それは、それで、いいんだろ?」
 それは、それで。そのサギの言葉は、これまでで一番に希薄な言葉だろうに、これまでの下手な詭弁よりも、一番に信頼性がるような気がした。そのことが何だか面白くて、私は無意識に頬を緩めてくすりと笑う。するとサギも、自分の言い分が滑稽になったのか、唇の端を少しだけ吊り上げてにやりとした。
 まあつまりね、とサギは笑いながら、「俺の一存じゃあ、ハトはそう簡単に詐欺師も乞食も認めちゃくれない。俺が何か喚いたところで、次の日から駅前のハト全員が、くちばしにオリーブをくわえてくるとも思えない」
「それじゃもし、ハトがみんな、オリーブをくわえてたら」私は小さく、「そしたら、サギは――ハトが平和だって、認めるの?」
 尋ねると、サギはその途端にすうっと笑いを引っ込めてこちらを向き、それこそ本当に鳩が豆鉄砲でも喰らったかのような、きょとんとした表情になった。それから少しの間黙っていたが、やがて開いた瞳孔を元に戻して、ああ、と頷く。
「そうかも、しれないし、そうじゃないかも、しれない」
「何それ」煮え切らない返事に首をかしげると、サギもわずかに首をひねった。
「どちらにしろ、そんなの、俺には決定権のないことだよ。みんながそうだと言うなら、それでいい。少しでも誰かが良い気分になれるなら、それは、それだけで意味のあることだ。そこに俺の馬鹿みたいな私論を差し込むのは、そりゃ、俺の方が間違ってる」
 それにさ、とサギは明日の天気の話でもするかのような気楽さで、頬を弛緩させた。
「俺だって、実際のところ――ハトと、大差はないのかも、しれないしね」
 大差はない、というその声が、鼓膜をひんやりと冷たくする。昨日のリョウの言葉が、知らずのうちに脳裏の片隅を過ぎった。何が、も、なぜ、も分からない。ただ今のサギの調子に含まれていた、若干の自嘲するような響きだけが、私の神経を青く染めた。
 電車が、大きく揺らぎながら駅のホームに滑り込む。車窓の奥に見える風景がだんだんと遅くなり、それらはまるで、スローモーションで流れていく映像を見ているようだった。灰色の中にホームの人々が現れ、彼らの着ている服の色一つ一つが、窓の外で滲み出し、ぶれる。
 サギが、吊り革から手を引っこ抜いた。それでようやく私は、ここはサギの降りる駅なのだと、思い出した。
「じゃあ」
 サギが実にそっけなく、私に別れの挨拶を投げかける。もう少しで、電車は動きを止める。キキーッという線路が擦れる音と、揺らぎの消えていく車内と、明確さを取り戻していく風景。私はその中に取り残されて、サギはその中からゆっくり、逃げようとしていた。
 止まるな、と私は思う。止まるな、と叫びたい。自分のわがままが理不尽だと分かっていながらも、今この場で地震でも起きればいい、などと不謹慎なことを考える。視界を照らすぶれた夕焼け、その赤色がだんだんと濃く、はっきりと、私の網膜に照らされる。
「……ねえ」
 ドアへ向かうサギの背中に、私は静かに、声をかけた。その瞬間に、ゴトリ、と奇妙な余韻を残して、電車がすうっと止まる。座っていた人が何人かぱらぱらと立ち上がり、耳慣れたメロディーが流れて、その音に急かされるかのように、ドアが軋みながら両脇に開いた。
 私は吊り革に手首を預けながら、サギを見る。
「サギは」飲み込んだつばが、苦くて、まずかった。
「ハトじゃ――ない、よ」 ……ネ?
 本当に尋ねたかった言葉だけ、私は自分の内に留めた。留めておかなければ、いけない気がした。
 サギはしばらく開いたドアの前で馬鹿みたいに突っ立っていたが、やがて少しだけ頬をほころばせて、きれいに笑う。
「……ありがと」手を少しだけ持ち上げてゆらゆらと振りながら、「アズキ」
 最後に私の名前だけ呼んで、サギは、ドアをくぐった。輪郭のあるバショに降り立ち、窓の向こうで、サギの顔が赤い日射に染められていくのが見える。両手をポケットに突っ込んだ少し猫背の後ろ姿は、一度も電車の方を振り返らずに、ホームを行き交う人々の波に呑まれていく。
 追いかけようか、と、一瞬考えた。考えた途端、それを阻止でもするかのように、ドアが軽快な音と共にぴしゃりと閉まった。だから私は、何だかどっと疲れて、空いた座席に腰かけた。開く時はのろまだったくせに、閉まる時は早いんだなあと、そんなことをぼんやり思った。
 がたん、ごとん。がたがた、ごとん、がたっ……ごとん。
 口の中はまだ苦くて、疲労はぐったりと体を巡って、微弱な振動がだんだんとテンポを増して、車窓の景色がまた滲んで、様々なものを通り越して、ハトもオリーブも散らばって、アズキもウソツキも消えて、サギを残して、私を残して、後悔だけを拾って、何にも分からないまま、
 ――電車は、静かに、動き出した。

fin
(2008.09.13)

   感想・批評など、よろしくお願い致します。



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