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羊と狼 まったくシィプはどうしようもない少年だった。シィプは十七の時に高校を中退して、親の金をくすねて都会に出てきた。そしてシィプは仕事を探したのだけれど、もっとも未成年で身分証明のひとつもない少年が、まっとうな職にありつけるはずもない。シィプは当然のように日陰で働くことになった。住み込みの、水商売の使いっ走りのような仕事。そこでシィプは掃除をし、クレーム電話の処理をし、皿を洗った。 シィプに与えられた部屋はまるで監獄のような倉庫だった。その倉庫には最低限の寝床と家具があり、非常に電波の悪い小さなカラーテレビがあった。食事は出なかった。シィプは毎朝その、窓のひとつもない灰色の壁の中で目を覚まし、共同の手洗い場で顔を洗った。朝食はたいてい、コンビニのおにぎりがひとつきりだ。シィプは働き分に見合った、正当な賃金すらもらえなかった。 そしてシィプは朝から晩まで雑用をこなす。一日が終わると外はもう暗くなっている。シィプの店は、その時間帯から営業を始めるのだが、ようやく開店し始めた頃にはもう、彼に仕事はない。シィプは日陰の、もっとも暗い部分で働く。一日の労働から解放されると、シィプは繁華街までぶらぶら歩いて、晩飯を食べる。高くても五百円程度の食事だ。しかし、シィプはそれで一日の疲れを癒す。腹がふくれると、部屋に帰って眠る。あるいは、三日に一回の銭湯に行き、それから眠る。 シィプはもう二年半も、そんな生活を続けていた。そこに娯楽はひとつもなかった。あるのはただ、どうしようもなく色褪せた壁と、ビリビリと叫び続けるテレビだけだ。シィプは時おり、コンクリートの床に転がりながら、そのテレビを見つめる。家には大きな液晶のテレビがあったな、とシィプは過去を思い出し、少しだけ懐かしく思う。それが、テレビに対する懐かしさなのか、過去の日々に対する懐かしさなのか、シィプにはわからない。わからないまま、シィプはいつも眠ってしまう。夢は見ない。シィプには見たいと思う夢などない。 電源がついていないとき、テレビはモノクロの鏡になり、電源がつくと、テレビはカラーの波になった。三秒以上、テレビがまともに映ることはなかった。ひどいときにはどのチャンネルに変えても、テレビは永遠に横線の模様だけを映した。そしてテレビは常に悲鳴をあげている。部屋の中に、テレビ以外に音を発するものはなかったから、その悲鳴は狭い空間によく響いた。だからシィプの鼓膜にはビリビリがはり付いている。 そんなテレビの中から、少女が飛び出してきたのは突然だった。 少女はウルフという名前だった。ウルフはビリビリの間に現れた裂け目から、始めに頭を覗かせた。薄い白銀色の長く真っ直ぐな髪の毛が、テレビから漏れてきたとき、シィプはあんまり驚いて、画面の電源をぶちりと切ってしまった。けれどそのテレビは、まるで自分がただの電化製品であることを忘れてしまったみたいに、自分の意思でまたビリビリを再生させた。髪の毛に続いて白い腕が出てきた。それは顔、からだ、足と続いて、最後に指先がにゅるりと出た。ウルフを全て吐き出してしまうと、またも自分勝手に、テレビは電源を切った。 古びたテレビから生み落とされた少女は、一度ぱちりと大きなまばたきをした。その瞬間にウルフとシィプは初めて目を合わせた。ウルフは億劫なくシィプをじっと見詰めて、はじめまして、と言った。 「わたし、ウルフっていうの。あなたがシィプ?」 ウルフは美しい少女だった。日射もないのに輝き続ける、繊細で奇妙な髪の下に、ウルフの柔らかい顔があった。長い睫毛に茶色の瞳、薄く色づいた唇に細い輪郭。シィプは思わず、ウルフの容姿に目を奪われる。こんなに間近で女の子を眺めるのは、久しぶりだ。ウルフは灰色の、てろっとした薄いスリップドレスを一枚着ていた。ウルフが身に着けているのはそれっきりで、薄い布にはささやかな胸の膨らみがあった。ウルフの外見は、テレビから出てきた女の子というよりかは、まるで天から落ちてきた神の子のようだった。 うん、とシィプは緊張しながら答える。「どうしてぼくを知っているんだい」 「どうしてわたしが、君を知っているのか?」ウルフは繰り返した。「とても申し訳ないんだけど、今はまだ、わたしはその質問には答えられないのよ。嘘の返事すら、今のわたしはまだ出来ないの。出来る状態ではないのよ。わたしにとっても、君にとっても」 「それじゃもうひとつ。どうして君は、テレビから出てきたんだい」 「どうしてわたしが、テレビの中から出てきたのか?」どうやらウルフは、他人の質問を繰り返すことが口癖みたいだった。「なぜ冷蔵庫とか、タンスの中とかからではなかったのか。なぜあえて、テレビの裂け目から現れたのか。そしてわたしは、どうやってテレビをくぐったのか」 ウルフの声は高く、清潔さに溢れていた。シィプは久しぶりにまともな女の子の声を聴いたような気がして、耳殻までもがくすぐったくなる。シィプが普段聴いている女たちの声は、決してこんなに綺麗なものではなかった。彼女たちは普段、声というより、音のようなものを喉からしぼり出していた。だからシィプは、ウルフの声色が新鮮で仕方ない。 「シィプ、君にはわたしに対する疑問が、たくさんあるかもしれない。単なる疑問も、好奇心からくる疑問も、それらは君にとってすごく大きな疑問なのかもしれない」ウルフは首をかしげた。「でも、それは今、まったくどうでもいいことなのよ。これはシィプの物語であって、ウルフの物語ではないの。わたしがテレビから出てきたという事実は、君にとっては非現実的なものかもしれない。でも、少なくとも私としては、それはまさしく現実的なのよ。だって、わたしは現に、随分と遠いところから、このテレビを通り抜けて来たんだもの」 ウルフはぺたん、とコンクリートの上に両足をつけて座った。ウルフとシィプの距離は一メートルだった。ふたりの間に漂う空気は、張り詰めているわけでも、緩んでいるわけでもなかった。シィプはふいに、自分はこの少女と仲良くなれるかもしれない、と思った。初対面の女の子とふたりきりでいるのに、シィプの心情に気まずさは微塵もなかったからだ。 ようするに、客観と主観でファンタジーは変わるのよ、とウルフは言った。「わかる?」 「わからない」 「無理に理解する必要性はないのよ」ウルフはシィプを見詰める。「オーケー、それじゃ大事なことだけいう。シィプ、君はわたしのことを、深く考えてはいけないの。わたしはただの、たまたまテレビから出てきた女の子なのよ。だから君は、わたしのことなんて放っておいて、自分のことだけ考えなさい」 「自分のなにを?」 「自分のなにを考えればいいのか。そんなこともわからないの?」 ウルフはやれやれ、と首を振った。「シィプ、君はもう、すべての着ぐるみを脱ぎ去ってしまったのね。君は大切なことをすべて忘れてしまった。君にはちゃんと、帰るべき場所があるのに。ここでの生活は、そんなに凄まじく荒んでいたのね? シィプをこんなにも衰弱させるほどに」 「着ぐるみ?」 「着ぐるみとはなにか。それはねシィプ、君が狼になるための着ぐるみよ。君は生まれたときから今まで、ずっと弱っちい羊だけれど、羊には狼になるための着ぐるみを被ることが出来るの。貧弱な羊にだってチャンスは必ず与えられている。わたしたちの神様は、常に平等を律しているのよ」 そしてウルフは、自分の話をした。わたしだって元はひとりの羊だったのよ、とウルフは言った。ウルフの家は荒れていた。父親は仕事に行くと言い訳して、愛人の家に通った。父親は帰宅すると母親に言葉で暴力を奮った。父親の悪口の才能というのは、もはや天才的なもので、ウルフは家にいる間ずっと耳栓をしていなければならなかった。父親は決して手は出さなかったけれど、目に見える暴力がない分だけ、そのやり方は醜悪だった。やがて母親は、居間の床に座り込んで、放心状態でいることが多くなった。母親は毎日、ずっとテレビを眺めているだけで、ウルフのご飯を作ることも忘れた。自分がひとりの母親であることも忘れた。 父親はウルフにも平気で暴言を放った。どうして生まれてきたんだ、と唾を吐きかける父親が怖くて、ウルフはある日、自室に鍵をつけた。耳栓を決して外さずに、布団にくるまって一歩も部屋から出なかった。学校に行くことよりも、ご飯を食べることよりも、とにかく父親を恐れた。睡眠をすることも出来なかった。 そして三日経った。あまりの空腹に耐え兼ねて、ウルフがようやく部屋の外に出ると、すでに父親は消えていて、居間には母親の死体が転がっていた。ウルフは一日、死臭の漂う居間で眠り、目覚めると警察に電話をかけた。母親は息絶えてから丸三日が経過しており、その死因は薬による自殺だった。 「それからわたしは狼になったの」ウルフは言う。「わたしは狼の着ぐるみが手離せなくなった。羊でいることが怖くなったのよ。自分が弱い人間であることが、怖くなった。だからわたしはもう羊には戻らない。わたしは永遠の狼少女で、羊少女じゃない」 シィプは改めてウルフを見た。ウルフの中身を、シィプはじっと目を凝らして覗こうとした。シィプはウルフの中に潜む羊に興味を抱いた。それはいったい、外見のウルフとどういう風に違うのだろう、とシィプは思った。それは、自分と似ているのだろうか。ウルフは、どんな羊少女だったのだろうか。 「だから、シィプ、君もそろそろ、狼に戻る頃合なのよ。自宅を出てきたとき、君は確かに狼だったはず。けれど、この陰気な日々のせいで君はすっかりその着ぐるみを溶かしてしまった。もう君は十分にここで生きたのよ。君はもう十分に償ったのよ」 ウルフは立ち上がって、シィプに手を差し出した。シィプはしばらく迷ってから、その細い指を掴む。ウルフの指は冷たかった。爪は丸く短かった。ウルフは決して、すべてが狼ではなかった。ウルフはただの、たまたまテレビを通り抜けてしまった少女であり、シィプと同じ羊であった。それの証拠に、ウルフには長く硬い爪も口の端から覗く牙も、分厚い毛皮もなかった。ウルフはあくまで無防備な偽者の狼だった。 「もうファスナーを上げなさい、シィプ。上まできっちりと上げるの。誰にも中身を気付かれないように。どれだけ羊の鳴き声を出したくとも、狼であり続けるのよ」 その時、またテレビの電源がついた。ビリビリが再開し、ウルフはシィプに握られた手からするりと逃れた。テレビの画面には裂け目が出来ていた。テレビは吸い込むようにして、ウルフの髪の毛を引っ張った。ウルフはテレビに近付く。ビリビリは音量を上げ、裂け目はだんだんと大きくなっていく。それじゃあ、とウルフは言って手を振った。その時ウルフは初めて柔和な笑みを見せた。まるで羊のような笑顔だ。 「ばいばい、シィプ。またね」 シィプが瞬きをすると、そこにはもう、すでにウルフの影はなかった。途切れることのないビリビリだけが、また部屋に充満した。先程まで確かにシィプの鼻をくすぐっていた新鮮な香りも、霧散していた。シィプはうるさい音に耐えられなくなって、テレビの電源を消す。テレビはもう自分勝手には動かなかった。テレビは自分が人間に使われる電化製品であることを、途端に思い出したみたいだった。 夢だったのかもしれない、とシィプは思う。テレビから少女が出てくることなんてことが、果たしてありえるだろうか。けれど、シィプの指先には小さな熱が残っていた。そして、灰色の床には、艶やかな白銀色の髪の毛が一本落ちていた。シィプはそれをしばらく眺め、ポケットに仕舞い込む。またね、とウルフはいった。シィプはその言葉を信じようと思った。 とりあえず、電話をかけに行こう、とシィプは腰をあげる。どうしようもない少年はファスナーを閉じる。そして羊は狼になる。シィプは、自宅の電話番号を覚えていた。 fin (2009.07.18) |