イコォル

 そういえばわたしは現実の色を目にしたことがなかった。
 その頃のわたしの世界といえば、ちっぽけなブラウン管テレビに映る、四方を黒い縁取りが覆った場所だけだった。わたしは世界というものが存在することも知らず、ただ消失する画面ばかりを覗いていた。手に持った細長くて平っぺったくて、たくさんのボタンが付いたそれを手でぽちぽちと動かすたびに、世界は消えて、また現れた。何度も何度も世界はたくさん消えて、たくさん現れて、何回かそれを繰り返すうちに、さっき消えたはずの世界がまた現れる。完全なルゥプ状態のたくさんの世界が、そのブラウン管の中にはあった。
 当時わたしの世話をしてくれていたオンナの人、確か名前はノムラとかいったのだが、わたしは一度彼女にこう尋ねてみたことがある。どうして世界は消えたり現れたりして、何でまた戻ってくるの。一度なくなったものはもう復元できないのだとチチは言っていたのに、世界だけ枠外だなんて、何だかおかしいじゃないか。ズルいじゃないか。わたしが死んだってわたしは戻ってくるはずないのに、ねえ。
 ノムラはひどく困ったような顔をして首をひねり、膝をかくんと折って腰を低くして、わたしと目の位置を合わせた。ノムラはわたしと何か話すとき、必ずこうやって互いの顔を正対させる。ノムラはその真っ黒い目でじいっとわたしの瞳を見据え、引き結んだ唇をゆっくりと開いた。
「オジョウサマ」誰のことだろう、と一瞬ふとした疑問が浮かんだが、すぐにアアこれはわたしの名前かと気付く。本名であるかどうかは定かじゃないが、少なくともノムラは、いつもわたしをその名で呼んだ。 
「オジョウサマ、あれは世界じゃァありませんよ。あれは、テレビというものです」
 恐らくわたしは、ふうんと首をかしげたように記憶している。今でこそわたしはテレビという固有名詞と、それがどういった構造で働いているのかを大方は理解しているが、当時のわたしにそのような概念は元から存在していなかった。あの時にノムラが、テレビは電気がどうの電波がどうのと懇切丁寧に説明してくれていたとしても、わたしの方は真顔で、「デンキってなあに」とでも返答したのだろう。
「てれび」わたしは異国語でも喋るかのような片言で繰り返し、一度ノムラの喋った事柄について、足りない脳でむずむずと思案した。
「テレビは、世界じゃないの?」
「違います。テレビは、うぅんと、そうですねえ――世界をそっくりそのまま抜き取って、世界のように画面に映し出している、ただそれだけのもの、です」 
「抜きとるの?」わたしは、自分の一番身近でその言葉が使われている場面について想起し、そこから連想されたものを思い浮かべて、無意識に唇を噛んでいた。この不安を煽るような機微を、普通は嫌悪感だとか不快感だとか呼ぶのだろうが、かつてのわたしの脳内はしごく単純な造りをしていたから、感覚が直結して感情に繋がっていた。痛い、イコォル、厭だ。わたしにとってはそれで十分であり、それが全ての答えでしかなかった。
 わたしはノムラを上目遣いに見やり、自分なりにはしっかりと筋の通った意見を述べているつもりで、発言した。
「それは――チュウシャと、同じなの? テレビは、世界の血を、抜き採るの?」
 その時のノムラの顔を、わたしは今でもよく覚えている。彼女は一度はっと目を見開いたかと思うと、一寸も経たないうちにその目蓋を半眼にし、表情をあからさまに歪ませた。その、墨でも混ぜたかのような暗黒さを放つ瞳孔の中にある感情は、憎悪やら嫌悪やらといった、決してプラスではない気色であり、何ら課の怨念すら感じさせる彼女の心情を敏感に嗅ぎ取ったわたしは、そこですっと口を閉じた。
「オジョウサマ」と、ノムラは言った。
「それは、オジョウサマにはまだ早いことですよ。むつかしいことなんて、お考えにならなくてもよいでしょう? オジョウサマはまだ、コドモなんですから――さあ、もう、お休みの時間ですよ」
 はぐらかされた、という事実に気が付いたのは、それから何年も経ってからのことであるから、ここには敢えて記さなくても良いだろう。
 兎にも角にもわたしはそのようにして、ことごとく世界から剥離されていた。生まれて十年と少しを過ごした部屋は、壁も床も天井すらも一様に真っ黒であった。必要な生活用品と寝台、手洗いと小さな机と蛍光灯以外には件のテレビしかなく、それらは全てが軒並み揃えたかのように、外装と同じ黒の着色がなされていた。その部屋には窓すらもなく、ドアにはいつも鍵がかかっていて、ノムラの他には誰一人として、そのドアを開けた者はいない。黒しか存在しない部屋の中で、蛍光灯の朱色の光とテレビが映し出すチカチカとした電子の色だけが、いつでも妙に目立っていたのを覚えている。わたしが着用していた衣服でさえも、使用されている色は黒唯一つであった。
 そのようにしてわたしは、これも後から知ったことだが、いわば「幽閉」されていたのである。わたしはチチとハハの顔すらも見たことがなかったし、この世にノムラとわたし以外のヒトが存在するのかどうかさえ、意識下の奥ではあやふやだった。
 ただ、チチとハハはなぜだか、自らの存在をわたしに示しておきたかったようである。何日かに一度、ノムラはわたしにテレホンの子機を渡し、オデンワデスヨと言った。わたしは素直に頷いてテレホンを耳に押し当て、そこから聴こえて来るチチだのハハだのと名乗るヒトたちの声に耳を澄ませた。何かを訊かれれば、子機に向かって言葉を吐いた。その時間だけが、わたしと、チチないしハハとのわずかな接触の時であった。
 チチとハハは大抵、世界での一般常識について、わたしに教えた。この教育がなければわたしは死と生の境すら知らずに育っていったのだろうから、この点については、チチとハハに感謝すべきなのだろうと思っている。
 しかし、これも今だから推測できることではあるが、わたしはチチとハハについて目下、大きな疑いの目を向けている。当時チチとハハは、わたしに親子の定義ついて語り、だからアナタは私達の子なのだと言った。まだ幼かったわたしはそういうものなのかと従順に納得したが、思えば、あれはただ「チチ」「ハハ」と名乗るヒト達がテレホンを介して喋っていた、というだけの話である。
 会話だけで、彼らを本当の「チチ」と「ハハ」だと認識するほど、現在のわたしは甘くはない。寧ろ、一度もわたしの前に姿を現さなかった分、その疑惑の念は強くなった。この件については今だ確かめてはいないのだが、いつの日か回答が知れる日も来るだろうと楽観している。血の筋は必然なのだと、思い起こせばこれもチチの台詞であったように思うが、つまりは、そういうことだ。血縁があればこそ真実は守られ、血縁があればこそ、虚偽は露見される。
 血縁――チ――あァそうだ、血の話をするのを失念していた。
 先ほどちらりと記したが、わたしは定期的に、体中の至るところから採血をされていた。細くきらりと光る針の先端が、日射に当たることなど皆無だったわたしの白すぎる肌に、無理やり押し入っていくあの奇妙なフィイリングは、今でも明確に記憶している。不思議とわたしは、その注射に対して痛覚は作用しておらず、ただ漠然とした恐怖心だけを抱いていた。血を、採られる。わたしの中の液体がぎゅうっと搾られ吸い取られていくあの感触には、そのまま心臓でも抜き出されてしまうかのような錯覚を、何度も見た。
 その採血は、週に一度行われた。注射をするのは毎回がノムラの役目だったのだが、ことが終わった後、彼女の手に握られたそれの中には、赤くどろりとした液体状の物質が揺れており、あれがわたしの体中に蔓延しているのだという事実は、わたしを大層動揺させた。赤、というその色は、背景の黒と混ざり合い、非常に気持ちの悪い色調としてわたしの脳内に刻まれた。
 思えばあの「赤」こそが、わたしが初めて目にした「現実の色」であったのだが、当時のわたしはそれにすら気付かず、採血を終えた晩にはがたがたと肩を震わせながら寝床へ潜り込むのが習慣となっていたのである。手首に浮かぶ血筋を見て、何度そこを掻き毟りたくなっただろうか――数えることすら億劫だ。
 質感のない壁と天井、黒で統一された部屋、黒に身を包む自分。その囲われた空間の中で、初めて現実性を伴って現れた赤い色は、わたしがニンゲンであるとの認識を、わたしに与えた。死ぬときには血が流れ、溢れ出すのに違いない、と思った。わたしはそれだけで、死ぬのがこわくなった。
 しぬのは、いやになった。
 何の後先もなかったわたしの、最初に抱いたがんぼうが、それであ

「旦那様」
 背後からの呼びかけに、私はワープロをこつこつと打っていた手を止めて、ゆっくりと振り向く。自分の作業に没頭していて、入ってきたことにすら気付かなかったのだが、そこに立っていたのは私のよく知る人物であった。何十年も前から我が家で雇っている、初老を過ぎた野村という女中である。
 野村は私の前に一杯のコーヒーを置き、シュガーは必要ありませんねと確認する。私は糖尿病の気がちらつき出した頃から、コーヒーはブラックで飲むことを己に言い聞かせていたので、今回もそれに習って野村に肯定の意を示した。野村はそんな私に、まるで幼い子供の躾でもしているかのような微笑み方をして、口を開く。
「旦那様、それは」野村は、私の目の前でカチカチと動いているワープロの画面を指差した。「何を、お書きになっているのですか?」
 その質問に私は数秒黙り、さてどう話したものかとしばしの間思案した。若き日の野村を無許可に登場させている手前、そうそうあけすけなことも言えない。しかし、彼女にこの文章を見せる気は露ほどもなかったが、それにしたって全くの虚言を吐くのも体裁が悪かった。
「そうだな、これは」私は唇の端をわずかに引き上げ、「――妄執、かな」
「モウシュウ、ですか」
「ああ。私自身の、底も出口も見えない迷妄だ。お前が気にすることじゃあ、ない」
 そうぴしゃりと跳ね付けると、野村は納得したのかしないのか、はあそうですかと呟いた。その呟きの中には、好奇心や疑惑といったものが何一つ含まれていないように思え、それに少しだけ安堵した私は、行き詰っていた構想の続きについて彼女に求めた。
 なあ、と一度呼びかけてから、
「お前が、赤色と言われて真っ先に思いつく言葉は、何だい?」
「赤色、ですか?」妙な質問だと思ったのだろう、野村は幾分か首をかしげ、やがて計算式の解答でも答えるかのような当たり前の口調で、言った。
「――林檎、でしょうか」
「林檎、ねえ」私は野村の答えにどこかしら愉快なものを覚え、ふふんと鼻を鳴らす。「それはひどく典型的な答えだなあ。果実の赤か。うん、いや、とてもいい――ありがとう」
 赤い色が、イコール、林檎の色である、か。それは二十何年前に少女の清らかな血を採り続けていた者にしては、ひどく滑稽な解であるな、と思った。どうやらその赤色に脅えていたのは、私の娘だけであり、世話をしていた女中にとっては、ただの無機質な液体でしかなかったらしい。
 私の娘――二十三年前に他界した、私のただ一人の子。
 彼女の短い人生を、こうして綴ってみたくなったのは、私の中の下らない妄想である。つまりそれは、娘がまだ生きていたならば、ということを仮定した妄想だ。私の脳内で積み上がり続けていたそれらを形にすることで、私は自分に何らかの区切りをつけるつもりでいる。これまで背負ってきた罪悪感、後ろめたさ、そういったものを払拭するつもりで、いる。
 それで全ての清算がつくと言うのであれば、それが最善なのだろうと、私は信じている。
「――ねえ、旦那様」
「何だい」野村にそう問い返すと、彼女は私の顔をひたと見据えて、薄い唇を開いた。
「何度も申すようですが、いい加減、嘘をつかれるのはお止めになった方がいいのではないでしょうか。旦那様、あなたは、取り憑かれているのですよ――もう、お気付きになって下さい。旦那様はもう、十分堕ちていらっしゃいます。このままでは、後戻りがきかなくなりますよ」
 私は、何の話だと訊き返したが、ふとその会話のやり取りに、一種のデジャヴを抱いた。そう、この光景は、これまでにも幾度となく繰り返されている。野村はその度に根気よく、私を諭し続けているのだ。
「旦那様、よろしいですか。二十三年前にこの世を去ったお嬢様、あの子は――旦那様の子では、ありませんでしょう」
 その言葉に、私はぎくりと肩を震わせる。認めたくない、と思うこと自体がすでに認めているのではあるが、私はその事実を断じて認識したくはなかった。野村は動揺を隠せない私を冷淡な目で睨むように見やりつつ、話を続ける。
「ご自分の子のように語るのは止した方がいいと、私は再三申しております。お嬢様の実の父母は、旦那様の病院の、患者様たちです。あなたは、それを失念なさっている。旦那様は単に、病に侵されていたあの子を、病院内で隔離していただけのことでしょう。隔離、いえ、幽閉と申し上げた方がいいでしょうねえ。旦那様は、院長の権限として、患者であったあの子を一室に幽閉させた――」
 そこまで言い、野村はふふっと笑った。
「旦那様は、決してあの子を実の両親の前に晒さなかった。感染症だの精神病だのと偽って、あの子を黒い部屋の中に十二年間も閉じ込めた。両親を納得させるために、彼等には電話を介して接触をさせた。テレビを置いたのは、そう、少女に自分の孤立感を認識させるため――でしょうか。それとも、これこそ私の妄想でしょうか? ねえ、旦那様」
 私は驚愕の表情を浮かべ、野村を注視する。野村は口こそ穏やかな笑みを浮かべていたが、その瞳はぞっとするほど暗く、怒りと憂いの混じり合った光をこうこうと放っていた。
「実際、あの子はそれほど重い病気でもなかったのでしょう? 私はただ、旦那様に雇われてあの子の世話をしていただけですから、詳しくは存じ上げません。しかし、定期的な採血で健康状態を測る以外、私はあの子に薬品の一つも打ってはいない。どんな不治の病であろうと、何の薬も与えないというのは、到底おかしな話でしょう。そう、あの子は、病気になど侵されていなかった――しかし、それなのに、あの子は、死にました」
 私はもう、野村の顔を直視できない。野村は私に向け、明らかな蔑視をくれながら、
「さて、これは――どうして、ですか。旦那様」
 私は妄言の書かれているワープロの前に座りながら、背筋がぞくっと凍りつくのを感じた。最早震えすらも収まり、死刑判決を下される直前の被告人にでもなったかのような心持ちで、沈黙を保っていた。そこでまた、奇妙な既視感が、脳内を支配する。この場面も、毎度繰り返されている、ループの中の一つでしかない。
 私は毎回、この事実を認識することを拒否し、野村はまた、語るのだ。
「――全てが、この出来事に関する全てが、旦那様のご趣味によるものだとしたら――」
 野村はそう言って、私の耳元に顔を近付け、乾いた鼓膜の中にぼそりとその言葉を吐き出した。
「私の告発一つによって、旦那様は――お嬢様のご両親に、殺されるのでしょうねえ」
 殺される。その鋭敏な空気を放つ言葉は、私の胸をざっくりと切った。私は自分の胸が破裂し、赤い血がどくどくと流れてくるのを、確かに肌で感じた。もちろんそれは妄想上、私の精神が引き起こした幻覚だったのではあるが、浮かんだ血の色の生々しさだけは、まるで本物のようだった。
 ぼんやりと霞んだ頭の隅で、私は思う。殺される、イコール、血、イコール、赤、イコール――林檎とでも、言おうか?
「それじゃあ、旦那様」野村は最後にくすりと笑って、言った。
「よく――お考えになった方が、いいですよ?」
 ――そうして、野村が去っていった後、明日もこれを繰り返すのか、と私はぐったりと疲れ切った脳で思い、それにいくらかの嘔吐感すら感じた。しかし私の内部にはすでに、自身が書き連ねた妄想上の「娘」の感情がそのまま移入しており、その露骨なまでの死への拒絶は、私に留めのない恐怖心を植え付ける。
 ――しぬのは、こわい。
 私は、まだ保存していなかったワープロの中の文書を捨て置き、その電源をぶちりと切ってから、何度も何度も、キーボードを拳で殴り続けた。 

fin
(2008.06.28)

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