イシとオレンジ

 三日前に雨が降って、地面がびしゃびしゃになったから、犬が死んだ。
 犬の名前はオレンジ。柴犬と何かの種類が混じった雑種で、毛並の色は薄茶色だったのだけれど、日の光に照らされると、その毛は全身淡い橙色になってきらきら光った。少年はそんな、先端まで透き通った橙色の細い輝きを見て、その時丁度犬の名前を考えていたところだったから、そのままに命名した。オレンジ、と初めて少年が犬の名前を呼んだ時、オレンジは尻尾を小さく振って不思議そうに小首をかしげ、少年を見た。少年がにっと笑いかけると、それでようやく吠え、少年の元へ駆け寄った。
 そのオレンジが、今は冷たくなっている。日陰では茶色く、それでも綺麗で清潔だったオレンジの毛並も、ごわごわとして気持ちが悪い。さらさらと指の隙間からこぼれていくのが好きだったのに、と少年は思い、その感触を思い出して、またオレンジの背を一撫でしてみる。指が湿って、鼻をつんと突くような、変な匂いがした。
「ねえ」口を開くと、唇の端がぴりりと痛む。「――オレンジ」
 呼びかけるがしかし、目の前に横たわる犬は返事をしない。当たり前だ、と少年は自分に言い聞かせる。死んでしまったんだ、分かってる、ぼくは幼稚園に通う子供じゃない。そんなことぐらい、分かってるんだ。
 少年はごくりと唾を飲み込んで、左手首に巻き付けた腕時計をちらりと見やった。昔お父さんが買ってくれた、ごつごつとした大きな腕時計。たくさんのボタンの間で、デジタル数字が短い点滅を繰り返している。その規則的な数字は、少年が見ている中で、五時二分から三分へと移り変わった。
 もうこんな時間か、と少年は思う。暗くなる前に帰らなくっちゃ、お母さんに怒られること請け合いだ。どこへ行っていたのと聞かれたら、また友達と遊んでいたとでも、嘘をつけばいい。お母さんはタケちゃんの名前を出すと安心するから、あいつと遊んでいたと言おう、そうしよう。
 胸の動悸を抑えながら少年は立ち上がり、届くはずもないと分かっていながら、足元でうずくまるオレンジに「じゃあね」と声をかける。オレンジは当然ぴくりとも動かず、死んだ時と同じ姿勢のまま、少年のことなど丸っきり忘れたかのように、地面にうずくまっていた。そんなオレンジの姿は、何だかとても「死体」らしくて、少年は喉元で感じた胃液を必死で押し留めながら、草むらを出る。
 錆びれた遊具が数個あるだけの、地元の子供でもほとんど遊ぶことのない、小さな公園。その公園の片隅、草の茂みに覆われた向こう側に、オレンジはいる。公園の側からは見えない、少年にとっての秘密の場所だ。
 夕焼けの日射で、真っ赤に染まった公園には、いつもの通り人の気配がない。寂れた空気に急かされるように、少年は早歩きになった。今自分が、こうして歩いていられることが、だんだんと不思議になってくる。オレンジみたいに、いきなり「生きている」糸がぷつりと切れたら、ぼくだってすぐに、歩けなんかしなくなる。アチラとコチラの境界線はひどく薄っぺらいのに、その差だけが、一日一時間一分一秒、時間が刻まれるごとに馬鹿みたいなスピードで、どんどんと広がっていく――。
「ねぇ、君」
 突然、背後から声がした。頭の中でぐるぐると回っていた灰色の霧が、鼓膜の震えた途端にすうっと消え入る。どうしようか、と一瞬迷ったが、結局少年は額に浮かんだ冷や汗を無視して、ゆっくりと後ろを振り返った。人の歩いてくる気配など微塵も感じなかったのに、どうしてだろう、目の前には黒い服を着た痩身の男が、まるでそこにいるのが当然のことであるかのように、余裕の表情で佇んでいた。
 少年は首をくいっと持ち上げ、男の姿を眺める。黒いジャンバーに黒いズボンを着て、細い体は少しだけ猫背に傾いている。見たところまだ若い、青年のようだったが、それでも少年よりは何歳も年上だ。背丈も、少年の身長からしてみれば見上げるほどだが、その年頃の平均が分からないから、高いのか低いのかについては定かじゃない。少なくとも、少年のお父さんの背丈よりは、幾分か上のようだった。
「……なに」
 少年は、どことなく怪しげな雰囲気をまとうその男に、けれどこれはよく騒がれているフシンシャではないなと推測して、震える声で何とか応答を返した。シラナイヒトに声をかけられたら、無視して、すぐに逃げなさい。親や先生はよくそう言うが、目の前の男の声は穏やかで、こちらを見る真っ黒の瞳には、何かしら他人を安心させる輝きが揺れていた。
「あそこにさ」男は若干低音の声で言いながら、肩越しに、後方の草むらを指差す。
「あの奥に――犬の死体、あるだろ」
 少年は、額に浮かんでいた汗が髪の毛の間をつうっと滑るのを、肌で感じた。背筋に冷たい戦慄が走りぬけ、少年の身を凍らす。唇を噛んだまま何も喋らずにいると、男はそんな少年の姿を下目に見ながら、少しだけ頬を緩ませた。
「あの犬、君の?」
 どう答えようか、と迷う。正確に言うならば、オレンジは最期まで公園の片隅に住み続けた野良犬であり、名前を付け、何とか親の目を盗んで餌を与えてこそいたが、少年の飼い犬という訳ではなかった。オレンジは、少年の中ではオレンジだったけれど、実際には名前のない犬で、それは誰のものでもない。
 けれど、と少年は思う。オレンジは、あの行き場のない犬は、いつだって自分の傍にいたのだ。ぼくのものではないかもしれない、けれど友達だったという意味ならば、恐らく、オレンジは自分のものだった。
「――うん」
 数秒の沈黙の後に少年がこくりと頷くと、「そっか」と男も頷いて、じゃあとすぐに言葉を続けた。
「何で、埋葬しないの?」液体が浮かんだけれど、この男の前で泣いてしまうのが嫌で、必死で押し留めた。
「マイソウ……」
 少年は、片言のように繰り返す。始め、その四文字が一体何を意味するのか、少年にはよく分からなかった。ただ、その単語の端々に感じる不穏な響きに疑心を掻き立てられ、眉をしかめた少年を見て、男は首をひねりながら説明を加えた。
「だからあの犬、死んじゃっただろ、だから」天気の話でもするかのような口調で、男は屈託なく言った。
「埋めてやらなきゃ、かわいそうだ。埋めれば土に返るけど、あのままだと、腐るだけだよ」
 あ、と少年はぽつりと声ともつかないような音を漏らし、唇を一層強く噛む。あまりに強く噛みすぎたのだろう、唇の端がぴりっと切れて、口の中に錆びた鉄のような味が染み渡った。それでも、少年は歯を立てることをやめない。何だかひどく惨めな気分になって、目蓋の下が湿りそうになった。
 マイソウしてやらなきゃ、クサるだけ。分かってる、分かってるんだ。なのに――土の下に閉じ込めてしまったら、オレンジは、もう二度と、出てこられない――?
 全部、消えて、なくなるのか。あの毛並、ごわごわしてたって、オレンジなのに。
「――あ、した」
 喉元で震える声を空気に乗せると、かすれてか細い響きになった。なに、と目を瞬きさせる男を、首を上げて真っ直ぐに見据え、少年は言う。
「あした、オレンジ……あの犬、マイソウするから」大きく吸った息が、気管の奥をちくりと刺す。辺りの風はまだ九月とあって生温いのに、胸に入ってくる空気だけが、ぞくりとするほど冷たい。
「だから――お兄さんも、来て。ぼく一人じゃたぶん、無理だから……手伝、って」
 少年はその時、自分がどのような表情をしていたのか、分からなかった。相変わらず情けのない泣き出す寸前の顔だったのかもしれないし、唇を真一文字に引き結んだ、険しい顔だったのかもしれない。ただ、男は少年の申し出を受けて、始めはうろたえたように「え」と声をこぼしたが、少年の表情を見るとやがて、何かを決したかのように、渋々といった様子で肯いた。少年は、ほっと胸を撫で下ろし、口を開く。
「ありがと」
 そこまで言ってしまうと、少年は急に、お母さんのことを思い出した。はっとして腕時計の数字を見ると、もう五時半を回っている。やばいな、と今度こそ本格的に冷や汗が垂れた。今から走って帰れば、頭ごなしに叱られることぐらいは、免れるかもしれない。ぶつぶつと小言を言われはするだろうが、明日から外出禁止になるより、マシだ。
「それじゃお兄さん、あしたね、夕方四時ぐらい」
 男はふわあと欠伸をしながら、「おっけー」と適当に手を振った。その姿があまりにも軽薄だったので、少年は不安にかられて、もう一度念を押す。
「あした、絶対だよ」
「分かってる」男は目尻に浮かんだ涙をついっと払って、少しだけ頬を緩ませ、にこりと笑った。「大丈夫、守るよ、約束ぐらい」
 うん、と少年は頷く。これ以上話している余裕はない、明日外出禁止を言い渡されたら、こちらの方が約束を破ってしまう。少年は最後に、「じゃあね」と軽く手を振って、男の返事も待たずにぱっと踵を返し、だんだんと薄暗くなっていく赤色の中を、自宅へ向けてひたすらに駆けた。背中の後ろ、遠くの方で、男の「じゃね」という短い声が聴こえた。
 あした――明日の夕方、オレンジは、消える。消えて、閉じ込められて、無くなる。
 右手を持ち上げ、額に浮かんだ汗をぬぐう。肌に触れた手が、突然にオレンジのさらさらした毛並の感触を思い出して、汗に濡れた指先を服の裾で拭きながら、少年は小さく、誰にも聴こえぬよう静かに、鼻をすすった。

   *  *  *

「雨がふってた」
 傍らで煙草に火を付けている男に、少年は言う。手の中で、大きなシャベルの持ち手が、汗にまみれてぬるりと滑った。それをズボンで拭いながら、少年は喋り続ける。
「雨がふって、夕方で、地面がぬれてた。たぶん、だから地面がびしゃびしゃで、それでタイヤがすべった。真っ赤な車だった。乗ってたのはお兄さんぐらいの、髪の短い、若い男の人。公園の入り口にちょうどつっこんで、急ブレーキかけて、キキーッ、って止まった。オレンジはそのとき、ぐーぜん、公園の入り口にいた。いっつも公園の中をぐるぐるしてるから、それは本当に、ぐーぜんなんだ。
 ぼくはそれ、目の前で見てた。オレンジに、いつもと同じように、えさを持って公園に行こうとしてた。目の前に公園につっこんだ真っ赤な車があって、それがバックするのが見えた。ぼくが見ている前で、車は行っちゃった。それを見送ってから、公園に入って――そしたら、オレンジが倒れてた。近よったら、ぴくぴくってちょっとだけ動いて、すぐに動かなくなった」
 地面が固い。介入を阻止しようとする地盤を前に、少年はそれでも、ぐうっと地面に押し入ろうとするシャベルの先に、必死で力を込める。男は少年が地面を相手に奮闘しているのを、横目でちらりと眺めながら、相変わらずぼうっとした表情で煙を吐いていた。
 昨日と同じ朱色に焼けた空の下、雑草が生い茂った公園の片隅。少年が額に汗を浮かべながら掘った穴は、もう少しで二十センチそこらといったところだろうか。少なくとも、五十センチ程度の穴は開けなきゃダメだな、と男は言った。近所の子供に、悪戯で掘り起こされては堪らない。
「それさ、その運転してたヤツ」男は手の中でくるくるとライターを弄びながら、
「――憎くないの」
 少年は、突然かけられた男の質問に一瞬戸惑って、目を白黒とさせた。ニクイ、というその言葉が、頭の中をうようよと漂う。脳の引き出しを一つ一つ、順番に開けてみたけれど、今まで誰かに対してそのような感情を抱いた記憶は全く見つからなかった。
 傍らで地面に突っ伏す、昨日と変わらないオレンジの姿を、少年はちらりと見る。運転手の顔は、薄い雲でもかかったかのように、ぼんやりと霞んでいて、あんまり覚えていない。覚えていたくもないな、と少年は思う。
「にくい、かどうかは……分からない」
「どうして」
「わざとじゃなかった」シャベルを握る手が、熱い。「わざとじゃ、なかったんだと、思う。たまたま、それも、ぐーぜんなんだ。もちろん、オレンジをそのままにして行っちゃったのは、イヤだけど、でも――」
 昨日切った唇の傷に、また上の歯が触れた。噛みしめると、染み込んだ何かがそこからじわっと溢れ出てくるかのように、神経の端々が反応する。痛かった。すごく、すごく、痛かった。
「……そっか」男は少しだけ笑って、「偉いね、君は」
 頷くことも否定することも出来ないまま、少年は男に言葉を返さず、また地面にシャベルを突き立てた。下に石でもあるのだろうか、なかなか入ってくれない。息を吐きながら悪戦苦闘していると、いい加減それを見兼ねたのか、それまで他人事のように眺めているだけだった男が、突然少年の手からシャベルを奪った。「やるよ」と一言こぼして、シャベルに足を乗せる。ごご、と地面の崩れるわずかな音と共に、シャベルが沈んだ。
 少しの間作業を任せることにして、少年はオレンジの隣りに腰を降ろす。気まぐれにオレンジの毛並を撫でてみると、それはやっぱりごわごわしていて、まるで死んでいることをアピールでもするかのように、毛先のあちこちを小さな虫が這っていた。
「お兄さんは」指についた虫を払って、少年は訊いた。
「にくいとか、そういうの、あるの?」
「あるよ、普通に」男は穴を掘り続けながら、「俺の名前は鷺谷っていうんだけどね、それを騙すって意味の詐欺とかけて、サギってあだ名をつけた友人がいる。笑いごとだけど憎いね、以来俺はずっとサギって呼ばれてるし――ああ、あと地面に煙草の吸殻ポイ捨てするヤツも、ウザい」
 どことなく弾むような調子を加えながら、男――サギは、そう答えた。少年は、ふぅんと適当に返して、またオレンジの毛をさする。汗を掻いていたはずの手の平が、オレンジの冷たさにすうっと吸い取られて、乾いていく。その無機質な冷たさが怖くなって、一束の毛をぎゅっと掴むと、何やらゴソッという奇妙な音がした。
「う、わ……っ」
 手を離す。掴んだ毛が全て抜けて、少年の手に貼り付き、ひらひらと揺れていた。慌てて地面に擦り付けてそれを落としながら、少年はオレンジの体を見る。抜かれた毛の部分が、丸く、円盤状に、禿げていた。
 口の中に、苦味が溜まった。吐きそうだ、ということに気付いて、ごくりと口内に溜まった唾を飲み込む。喉を滑り落ちる気持ちの悪いものが、また体の中にすとんと戻るのと同時に、何だか急に悲しくなって、目の端にしょっぱい液体が滲んだ。
「できた」という一声と共に、サギがシャベルを放り出す。カラン、と、地面とシャベルの接触する音があたりに鳴り響いた。口の端で煙草を動かしながら振り向いたサギは、少年の顔を見てあれ、と首をかしげる。
「どうしたの」
 鼓膜を揺らすサギの声は、少年のことを見下しているのでも、哀れむようでもなかった。ただ漠然と、どうして今泣き出すのか意味が分からない、とでもいった風にきょとんとした目で尋ねてくる。
 頭で考えるより先に、喉元で生まれた拙い言葉が、口から勝手に滑り出た。
「もう、だめかな」頬を流れる生温かいものが、気持ち悪くて、嫌になる。「オレンジは――消えちゃう、かな」
 言うと、サギは別段驚くこともなく、「さあね」と若干困惑したような表情で、肩をすくめた。それから何を思い立ったのか、ポケットの中から、とあるものを取り出して、それを手でもてあそびながら、少年の前まで来る。少年が赤く充血した目で見上げると、男は立ったまま、手の中にあるものを少年の前に落とした。ぼとっ、という鈍い音がして、地面にそれが転がる。
「……石?」
「そう、イシ」男はにやり、と笑って、「でも、ただのイシじゃあない」
 少年は地面で転がるそれを、そっと手で拾い上げる。少年の小さな手の中に収まるほどの、ピンポン玉ぐらいの大きさ。全体的に黒と灰色の入り混じった、ごつごつと明確な形のないイシで、握り締めると角ばった部分が手の平に食い込む。サギの言葉に反して、見た目は道路に転がっている石と、何ら変わりはない。それを目で訴えかけると、サギはよいしょと少年の目の前に腰を降ろして、黒い瞳で少年の視線を真っ直ぐに捉えた。
「そのイシで――オレンジは、生き返る」
 一瞬、サギの言ったことの意味が、分からなかった。え、と問い返すと、サギはまた唇の端を吊り上げて、不適な笑みをこぼした。黒い双眸の向こうに、少年の顔が映り、ぶれる。涙のフィルターがかかった、その向こう岸に、同じように涙に濡れた少年が、ぽかんと口を開けていた。
 サギは、続ける。
「そのイシで、何か、他の動物を殺す。そうすると、そのイシはその動物の生気、つまり魂を吸い取る。で、その魂はそのまま、オレンジの体に戻る。それで」それがさも当然のことであるかのように、落ち着いた口調でもう一度、「――オレンジは、生き返る」
「うそ」
 向こう岸の少年が、目を丸く見開いた。イキカエル。そんなことを素直に信じるほど、自分は子供じゃない。
「嘘じゃないよ」サギは笑い顔を引っ込めて、すっと真顔に戻った。
「この世に嘘なんてないさ。信じたことは――誰かが信じたことは全部、違う側面から覗けば、それらは全て別の意味での『本当』だ。例え虚像でも、それで誰かが幸福になれる嘘があれば、それは嘘じゃない。真実だよ。真実と名付けられた、嘘なんだ」
 言葉が難しくて、サギの言ったことはよく理解できなかったけれど、少年は何となく、こくりと頷いてみせる。するとサギは、それだけで満足したのか、またにこりと頬を弛緩させて、少年の頭にぽんっと手を乗せた。土と煙草の匂いが、少年の鼻をつんと突く。
「だから、いいかい?」
 サギは少年の髪の毛をくしゃくしゃと掻き混ぜ、笑いながら、刃物のように鋭く、真剣な声を出した。
「オレンジを、取り戻したいなら」きゅう、と声をすぼめて、サギは呟く。
「そのイシで、何かを――殺せばいいんだ」
 少年は、ざわめく自分の胸を押さえながら、イシを強く握る。心臓が奇妙なリズムで早鐘を打ち、頭をさあっと不穏な風が通り抜けて、手の中で存在を示すイシの感触が、なぜだか無償に怖かった。
 どうする、と問いかける。
 サギの目の奥に沈んだ、もう一人の自分も、その自問に答えは出ないようだった。

   *  *  *

 赤いキャップ帽を目深に被る。視界がすうっと暗くなり、狭く、細くなった。
 サギからイシを貰った次の日、空がまた三度目の赤に塗られる頃、少年は駅前の広場に立っていた。ポケットの中に手を突っ込むと、指先がひんやりと冷たいものに触れる。イシ。セイキを吸い取る、イシ――嘘だ、嘘だと思いながらも、こうしてイシを持ち歩いてしまうのは、どうしてだろうか。
 サギの言ったことが、真実だとは到底思えない。オレンジは、死んだ。ぴくりとも動かない、濁った目と固い体を持つむくろに様変わりしてしまったのだ。もう一度、あのふわふわした毛に少年が触れることは、二度とない。
 分かっている、と少年は自分に言い聞かせる。分かってる、分かってる。もう何度も繰り返したその言葉が、シャボン玉のようにぷかぷかと浮いて、少年の目の前でぱちんと弾ける。すると、その透けた向こう側に見える二つの赤い目が、少年をじいっと見返していた。
「……ハ、ト」
 口の中で呟くと、それに反応でもするかのように、近くにいた一羽がさっと飛び立った。
 少年は昔から、あまり鳩が好きではなかった。みんなが可愛いと言って餌をあげている時にも、近寄ることはできたが、同じように餌をやろうという気にはさらさらなれなかった。鳩の赤い目、ギラギラとしたあの双眸が、少年の目には、どうしても狂騒的で、心臓を脅かす。
 だから、気が付いたら、少年の足はここへ向かっていた。駅前の広場には、いつでもたくさんの鳩が群れをなしている。広場でぼうっとしている人たちに餌をせがみ、地面に落ちた菓子の欠片を、必死でついばんでいる。その姿は、可愛らしくもあるが、同時に、何だかひどく滑稽だった。
 何十羽もの鳩がざわめいている中に、少年は一歩、歩を進める。少年が歩いていくごとに、人間の気配を察した鳩たちは、餌を放り出して灰色の羽を広げた。静かな広場に、鳩の飛び立つ音だけがやたらと響く。飛び去っていく鳩たちは、真っ赤な目で少年に訴えかけていた。
 しかし、少年はそのまま、広場を横断する。歩くごとに鳩が消えていくのは、別段嬉しくもないが、気分は爽快だ。キャップ帽の下で小さく笑うと、その不気味な笑いに怯えでもするかのように、また数羽が目を吊り上げ、切れ切れに飛んだ。
 広場の端っこの草むらにまで到着し、少年はゆっくりと、振り返る。先ほどまでの騒々しさは毛の先ほどもなく、少年が通った後の広場は、二三羽の鳩がうろうろとしているだけの、閑散とした空間へ変貌していた。しぃん、と静まり返った中に、ようやく人の話し声が混ざる。
 少年はそんな、寂しげな広場を眺めながら、ポケットに入れた手を引っ張って、外に出した。握り込んだイシが、空気をまとって一層冷たさを増す。少年はぎゅう、と一度大きく瞬きをして、目の前の標的を、捉えた。
 オレンジ、と呟く。空気にも乗らない言葉が、生ぬるい風の中に溶けて、その流れの中に溶けた。
 そうして、少年が、イシを持った腕を――上げて、
「あっ……」
 張り詰めた鼓膜を、突然、高めの声が揺らした。咎めるような声色に驚いて、少年は振り上げていた腕を、ぱっと止める。慌てて声のした方を振り返ると、広場のベンチに腰掛けていた、二十そこらだろう女性と目があった。口をぽかんと開けたまま、女性は少年を注視してくる。それにうろたえて、混乱した頭のまま目線をスライドさせると、今度は女性の隣に座っていた男と、空中で視線が合わさった。
「え……」男の顔を見て、少年は思わず、声を吐き出す。その男は、目を丸くした少年を見て、にやりと笑いながら小さく手を振った。
 ――サギ?
 どうしてここにいるのだろう、と思うより先に、体が勝手に動いていた。イシをぎゅっと、手の皮が破れてしまうんじゃないかと不安になるほど強く握り締め、少年は駅の方面へと足を動かす。振り返ることも出来ずに、ただ真っ赤な空の下で、足だけが前へ前へと伸びていく。
 イシはまだ、少年の手中にある。
 これでもし本当にオレンジが戻るのだとしても、砕け散ってしまえばいいと、そう思った。だけれどイシは固くて頑丈で、少年の握力だけじゃ、どう頑張っても砕けそうにない。

   *  *  *

 昨日まではなかったのに、今日はそれが立っていた。どこかで買って来たのだろう茶色い板の墓標に、上手いのか下手なのかよく分からない行書体で、「オレンジのはか」と記されている。もう少し気の利いたことを書けないのだろうか、これじゃあただの標識だ。命日すらも書かれていないその板っ切れは、もうすぐ夜の訪れようとする暗さの中、生ぬるい風と人っ気のない公園の片隅で、まるでそこにあるのが当然のように、悠然と佇んでいた。
 土の盛り上がった墓の前に、少年はぺたりと腰を降ろし、膝を立てる。オレンジがここにいることを知っているのは、ぼくとサギだけだから、恐らくサギが、昨日ぼくの帰った後に用意してくれたに違いない。わざわざ墨を持ち出して、できるだけ立派な文字を書こうと奮闘している彼を想像すると、おかしかった。膝に額をつけてくすりと笑うと、声を出したつもりはなかったのに、意外と大きな音があたりに響く。
「見っけた」
 その笑い声の波長の中に、突然、ハスキー調の音が混じった。足音が、少年の背中に近付いてくる。声だけでそれが誰なのかは分かったけれど、少年はゆっくりと、首をひねって振り向いた。
「や」と、サギは毎日会う友人にでも挨拶するかのような気軽さで、右手を振った。だらしない姿勢のまま、暗がりの中でおぼろげに、柔和な微笑みを見せる。
「で、ミカン君、戦果はどうだ?」
「……ミカンって、何」
 滑らかな口調でさも当然のように呼ぶので、思わず聴き逃しそうになった。サギは少年の前に腰を下ろして、地面の前に堂々とあぐらをかきながら、「あだ名」とうそぶく。
「今考えた。そういえば名前聴いてないなあ、って」
「名前?」少年は目をぱちくりとさせて、「僕は――」
「いーよいーよ」サギはどことなく面倒くさそうな調子で、ひらひらと手を振った。少年はぴたりと口を止める。
「俺がミカン君って決めたから、君はミカン君でいい。オレンジとミカン、で丁度いいだろ」 
 訳が分からない。少しだけ訝しむように睨んでやると、サギはひょいっとその視線から逃げて、話題を戻した。
「そんで、どうだった」言いながら、オレンジの墓標をちらりと見やり、「――生き返った?」
「まさか」
 少年が目を尖らせると、サギはへらへらと肩をわずかに揺らしながら笑った。「それじゃ、あれから何もしてないんだ」
 何かしていたとしても生き返りなどしないだろうに、サギは平気な顔でそんなことを言う。少年は自分の脳内に立つ積み重なった常識が、ぐらりと揺らぐのを感じた。サギと喋っていると、どうにも、妙な心地がする。同じものを見ていても、サギの視界と自分のそれとでは、根元から何かが違うのではないか、という気になる。
 サギのいるセカイは、他の人とは、ちょっとだけ違う。だから、そう、こんな考えこそ幻想なのだろうけれど――サギのセカイでなら、イシは本当にオレンジを生き返らせるのかもしれない。
「お兄さん、なんで今日」ぐっ、と溜まってもいない唾を飲み込む。「あそこに、いたの」
「偶然だよ、ぐーぜん。俺が元からあそこにいて、そこにたまたま、ミカン君が現れただけだ。隣りにいた連れがちょっと驚いて声あげちゃったけど、まあ、それが結局は――君を、救うことになったんじゃないかな」
 すくう、と少年はその言葉を反復する。何を、何が。薄暗い空気の中に浮かぶサギの顔をじいっと見返して問いかけると、サギは黒い目をわずかに細めて、真っ暗なのになぜだかひどく眩しそうな表情になった。
「あのまま誰も止めなかったら、君はハトにイシを投げていた。もちろん、あんなイシっころ一つで、ハトを殺せるはずもなかったろうけど。混乱していたんだろうな、仕方ない……まあ、あれでハトが死ななかったとしても、イシは投げられただろうってことだ。君の手で、確実に、ターゲットを狙って」
 少年はひくり、と自分の喉が鳴るのを感じた。あの時は認識していなかったけれど、そうか、自分は鳩を殺そうとしていたのか。
「あのイシはね、生気を吸い取るよ。だけど」サギは黒い瞳を揺らし、「だけど、同時に――悪意も、吸い取るんだ」
「あくいが、イシの中に入るの」
「うん、そう。動物を殺そうと思うなんて、悪だろ。正義じゃあない。だから黒くて、あんまり気持ちよくないものが、イシの中にじわって滲みこんで、溜まる。そうするとその悪意は、そのままオレンジのタマシイになって、オレンジを生き返らせる。中に詰まってるのは、君の悪意が、そのまんま。そんだけだ」
 サギはそこまで言うと、堪え切れなくなったのか、ジャケットのポケットから煙草を取り出して、「悪ィ」と詫びながら口に咥えた。暗い空間を切り裂きでもするように、ぼうっとした赤く眩しい火が、ライターからこぼれ出る。その火は一瞬サギの顔を照らし、一瞬少年の顔を照らして、最後の一瞬で、煙草の先っぽに明かりを与えた。
「だから君は、あれで正解だったんだ。オレンジがまともに生き返るには、悪意なんか消さなきゃならない。そうじゃなきゃ、生まれ返っても、出てくるのは悪意がたくさん詰まったオレンジだけだ」
「でも」鼻をつんと突く煙草の匂いを嗅ぎながら、少年は必死で反論する。「でも、生き返るとか、そういうのは、ありえな――」
「ありえなくはない」サギは少しむっとした顔で、少年を睨み返した。鋭い目つきに、少年は一度怯んで少し身を引く。サギは畳み掛けるように続けた。
「嘘じゃないっつったろ。信じられないならそれでいい、だけど本当は違う、オレンジは上手くやれば生き返るはずなんだ。だけど、もしオレンジがちゃんとした状態で生き返ったとしたら、それをやった人間は、たぶん――死んだ方が、いいぐらいの奴だ」
 君はそんなの嫌だろ、違うだろ、とサギは言った。少年は、頷くこともかぶりを振ることも出来ずに、ただただ目を伏せて、考える。何を信じればいいのか、何を疑えばいいのかも分からなかった。頭の中でぐるぐると回るサギの言葉が、何やら変則的なリズムを刻みながら、少年の鼓膜で鳴り続けていた。
「なんなら」サギは口の端で煙草をふらふらと揺らし、紫煙を器用に動かしながら、声をすぼめた。
「俺が、オレンジを――生き返らせて、やろうか?」
 サギのその言葉は、水面下で、俺にはそれができるよと、宣言しているようでもあった。そのことに心臓を鷲掴みにされるような嫌悪感を抱き、少年はポケットから固く痛いイシを取り出して、サギの胸元に突きつける。目の前に差し出されたイシを眺めながら、サギはふっと笑って、尋ねた。
「……いいの?」
「いい」伏せた睫毛が、また湿気を帯びていく。「――いいんだ」
 泣くもんか、と思った。オレンジは死んだ、それでいいじゃないか。二度と生き返りはしない、偶然のことなんだから誰かを憎むこともしない、死んだものは戻らない、生き返りはしない、あのふわふわな毛並も、一緒に遊んだ記憶も、全部過去のもので、もう絶対に手に入らない。
 オレンジは今、この土の下で、眠っているのだ。それで、何が悪いと言うのだろう。悲しむだけは悲しんだし、泣くだけは泣いた。後戻りはできない、返っては来ない。
「そっか」
 サギはそれだけ言うと、やんわりと笑みを浮かべたまま、イシを受け取った。くるくると手中でもてあそびながら、サギは膝を立てて、突然すっくと立ち上がる。なんだと思って少年が上目に見上げると、サギは遠方を見つめながら、じゃあ、と口を開いた。
「これは」イシを持った手を大きく振り上げて、思いっきり、「――いらないね」
 こつん、という音が、暗い公園に大きく鳴り響いた。投げられたイシは、そうやってどこへとも分からない場所に消え、恐らく地面に当たったのだろうその音で、元の石に戻ったように思う。それは初めから、やっぱりただの石で、サギの目にはいつもイシに見えて、少年の中でも、ほんの一時だけはイシだった。
「すっきりした?」
 爽快なスイングを決めたサギは、にやりと笑って少年を見やる。すっきりしたのはサギの方だろうに、どうして自分に訊くのだろうと、不思議だった。それでも少年は、自分を安心させるために、若干濡れた目で、サギに向けて頷いてみる。笑ったつもりだけれど、上手く笑えていたかどうかは、よく分からない。
 けれど、サギはそんな少年の顔を見て、最後に一度だけ「大丈夫だよ、ミカン君」と、勝手につけたあだ名を繰り返した。
「オレンジは、死んだ」暗闇の中にすうっと消えていく、煙りの先っぽを、サギはぼんやりと見つめていた。
「オレンジ自身も、たぶん――それを、分かってる。後悔はしてるだろうけど、まあ、そんなに嫌でもないよ、きっと。生き返させられたら、それこそ」肩をすくめて、「たまったもんじゃ、ないって」
 うん、と少年は肯く。サギの言葉が正しいのか正しくないのか、サギが嘘つきなのか嘘つきでないのか、そんなことは分からない。それでも少年は、肯いた。何度も、何度も、何かを落ち着かせるように、必死で――。
 次第に、濡れていた瞳はすうっと乾いて、そこに張り付いて残った余韻が、悲しみとも寂しさともつかない、微妙な色合いで沈殿していたわだかまりを、溶かして、消していく。
 イシの砕ける音が、内側から、鼓膜を静かにノックする。 

fin
(2008.09.13)

   感想・批評など、よろしくお願い致します。



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