快速は止まらない

 貨物列車ってどこへ行くんだろう、とわたしは耳からぶら下げたイヤホンをくるくるといじりながら思った。パーカーのポケットから、もう一年も使っている携帯電話を取り出して、片手と顎を使ってくいっと開く。シルバーででこぼこのないスリムな表面に、それまで気付かなかった細かな傷がたくさんついていた。購入した頃は初めて手に入れた感慨もあって、ちょっとの傷だけでも大騒ぎだった。それが今や「気付かなかった」の一言で済ましているのだから、これはわたしの心の変化かな。ごめんよ、ケータイ。
 待ち受けに大きく映った、デジタル時計を見やる。午前の九時を回って、十二分。目の前を通り過ぎた電車の数は、貨物列車を含めて二十を超えた。乗り降りしている人の数までは、さすがに数えられない。田舎の駅だと思っていたのに、ずうっと眺めていれば、それなりに乗降者数はあるようで、私の住む町のどこに、こんなにたくさんの人がいるんだ、と不思議に思った。地底に第二の住宅地でもあるのだろうか。みんな、どこへ行くのだろう。貨物列車と同じで、分からない。
 そういえば以前、この駅で、一人の女性が線路に飛び込んで自殺した、という事件があった。もう一年以上も前の話だ。当時はこの町の中でも、その事件は話題になった。わたしは、よくもまあこんな地味な駅で自殺をする気になったものだ、と、まずそこに感心した覚えがある。わたしだったら、もうちょっと都会の駅にするのに、というわけだ。
 イヤホンの中でエレキギターの途切れ音を刻んでいた曲が、一つ終わった。シャッフルモードにしてあるから、すぐに次の曲が流れ出す。中学生の頃までは、好きだったミュージシャンの曲ばかりを聴いていた。それが、何が原因だったろう、とにかくある日突然、それまで注ぎ込んでいた熱が、根元からすうっと一気に冷めていったのだ。あれ自分、何でこんなに好きだったの、っていうアレ。もちろん、曲風や歌詞は今でも好きだけれど、何もグッズを買い揃えたり、ライブに行くほどじゃあないな、と思った。いや、気付いた、か。
 それが「大人になった」ということならまだいいけれど、それでも、少しだけ寂しくなったのを覚えている。
 今思えばあれは、それまでインディーズだった彼らが、急にメジャーデビューしてしまったのが原因かもしれない。わたしだけが知っていたはずが、急に誰でも知っているミュージシャンになってしまった。それが、自分の世界を周囲に吸い取られていくようで、悔しかっただけかもしれない。つまりは、嫉妬だ。やっぱりガキじゃないか、わたし。
 また、目の前を電車が通り過ぎる。快速だと、電車はこの駅を見捨てる。いつだったか友人に、あんたのとこは普通電車じゃないと帰れないでしょ、と言われたことがある。それが、私は妙に癇に障った。この町だって、そんなに田舎じゃない。美味しいラーメン屋もあるし、ゲーセンもあるし、映画館もいくつかある。カラオケだって安いし、お洒落な喫茶店も、お洒落な洋服屋さんも、たくさんある。わたしは、それを知っている。だから、快速電車がこの駅を通り過ぎてしまうのは、きっとそういうことに気付いていないからなんだな、と、わたしは勝手に納得していた。きっとあの友人は、それ以上に、気付いていないんだ。わたしはいっつも、この町で暮らしているのに。
 派手な楽器の音で埋め尽くされている鼓膜の中に、駅のホームに響くアナウンスの滑らかな音声が、ぴりぴりと混ざった。よく聴いてみると、あのアナウンスの女性は、なかなかいい声をしていると思う。こういう所で朝っぱらから聴いても、誰一人として不快感を抱かない声。それって、実は結構すごいかも。
 下らないことを考えていると、ようやく普通電車が到着した。ほんの数人が、電気で動く箱の中から吐き出されて、ホームに列を成していた人々が、次々とその箱の中に吸い込まれていく。窓から見える中の様子はぎゅうぎゅう詰めで、みんながみんな、どことなく苦しそうな表情をしていた。不快感がいっぱい、って感じ。やっぱりアナウンスのお姉さんはすごい。
 その電車が行ってしまうと、ホームにいる人はまばらになった。あと数分もすれば、また、すぐ一杯になってしまう。だからわたしは、このホームに人が少ない貴重な時間を存分に楽しむため、座ったベンチに腰を深くかけ直して、すうっと大きく息を吸った。コンクリートと、電車と、人の匂い。お酒の匂いがするのは、以前ここに座った酔っ払いの匂いかもしれない。煙草の匂い。ベンチに染み付いた副流煙も、肺に悪いのだろうか。
「おねーさん」
 ふと気が付くと、それまで空席だった隣のベンチに、若い男が座っていた。くたびれたジャケットと、ちょっとだけ洒落たデザインを加えたダメージジーンズ。目深に被った、ベージュ色のキャスケットの下に覗く顔は、どことなく中性的で穏やかな印象を持っていた。二十歳前後だろうか、少なくとも、わたしよりは年上だな、と適当に年齢を定めてみる。
「なに?」
 無視する理由もなかったので、そう返した。すると、男はその人畜無害そうな顔によく似合う、柔和な笑みを見せる。閑散としたホーム内には早くも、改札を抜けてきた人々の、焦る足音が充満していた。
「ずっとここにいるでしょ、もう一時間ぐらいかな?」
「何で知ってるの」
「俺もここにいたからさ」男は親指で反対側のホームを指差す。思わずそちらへ顔を向けると、「あっち側のベンチに座ってた」
 ふうん、とわたしは適当に頷く。わたしの耳には、まだ音楽が流れている。ただ、今は最近口コミで広がったバラードを歌う女性歌手の曲で、静かな旋律の中で男の声はやけに素直に聴こえた。
「で、何か用?」
 いや、と男はまた人懐っこい笑みを見せる。「ちょっと気になっただけだよ。おねーさん、ここで何してるの?」
 あんたには関係ない、と喉元まで出かかった言葉を押さえ込む。相手がいい人か悪い人かも分からないのに、初っ端からそうも無愛想に付き返す必要もない気がした。目の前で笑う男は、不審者にも、体目当てで近付いてくるナンパ男にも見えなかった。いや、実際、ナンパなんてされたことはないけれど。なんだかんだいって、ナンパされるというのは自分が可愛いと見られた、ということで、本当に遭遇したら、わたしは案外内心で喜ぶかもしれない。女子高生の脳細胞って、結構単純だ。
「特に何も」言ってから、それじゃあ会話が続かないな、と気付いた。「人を、待ってるだけ」
「カレシ?」
「ともだち」もう何十回目かのアナウンスが流れる。マモナク、一番線ニ、列車ガ、到着シマス。「――という名の、裏切り者」
「裏切られたんだ?」
「裏切られた、かも、しれない」わたしは、わざとゆっくり、片言のような声を出した。男は目にかかる前髪を、一度右手で払ってから、口を開く。そういえば、もう季節は夏へ向かっているというのに、男はやけに暑そうな長袖のジャケットを羽織っていた。わたしの方は、あってもなくても変わらないような薄手のパーカーなので、いまいち釣り合いが取れていない。
「それは、待ち合わせをすっぽかされたってこと?」
「そうとも言うけどね」わたしは左耳のイヤホンを外して、指先にまきつけながら手の暇を潰した。バラードは失恋した女の嘆きで終焉を迎えて、その次に流れてきたのは、わたしの嫌いな曲だった。アルバムの中に入っていたから、つい録音してしまったやつ。
「そうじゃなきゃ、何?」
「まあ、待ち合わせた時間に来なかった、ってだけだよ。それに、一時間と二十分遅れだけど、まだ来る可能性もあるからね」
「優しいんだねえ」男はにやにやと不適な笑いを浮かべた。似合っていない。「普通の人なら、憤慨して帰っちゃうと思うけど」
 線路の向こう側から、電車が来るのが見えた。きらっと一瞬、その頭が点滅したかと思うと、急速にホームへ近づいてくる。ずうっと眺めていると、電車が迫ってくるその場面は、形のない何かの脅迫概念に圧迫されているようでもあった。押し潰されるんじゃないか、と恐怖心を抱きながらも、目が離せない。
 やがて、電車はわたしの心配などお構いなしにホームへ到着し、耳を塞ぎたくなるブレーキ音と共に、キキーッと止まった。待ち兼ねたように、ホームの人々が動き出す。早くしろ、早くしろと急かされて、電車のドアはいじらしく開いた。
「おにーさんは」その光景を眺めながら口を開くと、男は「うん?」と首をかしげた。おねーさんに、おにーさん。どちらにも、揶揄する響きしか含まれていない。
「おにーさんは、何をしてるの? わたしが一時間、ここにいることを知ってるんなら、おにーさんもずっとここにいたんだよね?」
「ああ、うん、そうだね。俺は」ごくり、と男が唾を飲み込む音が聞こえた。「俺は――弔って、いるんだよ」
「トムライ」咄嗟には漢字が浮かばなくて、復唱する。男は、そう弔い、と頷いた。
「おねーさんは、この町の人かな。それなら知ってると思うけど、一年ぐらい前にさあ、この駅でホームから落ちて、電車に轢かれて、自殺しちゃった女性の話、知ってる?」
「知ってるも何も」つい先ほど思い出していた話題である。当時は学校の間で、一つの怪談話までできた。夜中零時にホームに立つと、彼女の悲鳴が聞こえる、という、何とも当たり障りのない怪談だ。
「俺はさ」男は、まるで昨日の晩ご飯の話でもするかのように、気楽な声で言う。
「その、自殺した彼女の、恋人だったんだよ」
「こいびと」わたしはまた、とぼけたオウム返しをしながら、「――付き合ってたの?」
「そう。年上のカノジョ。自殺する前日の晩まで、一緒のホテルのベッドで寝てた。彼女の仕事が忙しいからって、一ヶ月ぶりに会ってさ、馬鹿みたいにセックスばっかして、またしばらく会えないかもねえ、なんて笑いながら眠った。で、寝坊した俺が起きたら、彼女は死んでました、以上」
 陽気な調子は相変わらずだが、男の口から語られる話は残酷だった。男がコミカルに話す分、余計に悲痛さが滲む。気付くと、わたしは無意識に背中を狭めていた。そのまま心臓まで圧迫して、感情なんてものは弾け飛んでしまえ、と思った。
「遺書、とかは?」
「なかったよ。そう、なかったから、もしかしたらこれは事故とか他殺なんじゃないか、とも思った。推理小説の読みすぎかもね。でも、その時ホームにはたくさんの人がいて、みんなが彼女を見ていた。あいつはさ、電車が間近に迫ってきたホームへ――走って飛び込んだ、って」
 男は、自虐的に笑う。
「走って線路へ落ちたんだよ。そんなの、目眩でも立ちくらみでも、誰かに押されたわけでもない。確固たる意思をもってさ、何の恐怖心も持たずに、ただ自殺したいって渇望して、足を運んだんだよ、あいつは。もちろん、自分の意思でね」
 わたしは何も言えなかった。声は出たけれど、わたしの中にある言葉を製造する機械が、瞬間的に故障を起こしたのだ。わたしの、普段あまり使う場面のない想像力が、こういう時に限って鮮やかに動き出す。たったっ、と軽やかにリズムをつけながら、電車の迫るホームへ飛び込んでいく女性。その時、彼女は何を思ったのだろうか。何が彼女を、そこまで追い詰めていたのだろうか。
「どうやら、あいつはさ、俺の知らないところで」男は、ふうっと息をついた。人混みの中に、その空気が吸い込まれていく。「なんか、かなり困っていたらしい。職場で、同期の社員からいじめられていたんだってさ。今流行りの職場イジメ。それで、ずっと、誰にも相談せずに、追い詰められて。ある日突然、ばーん、だよ」
 ばーん、というところで、男は小さく両手を打ち合わせた。その様子があまりにも滑稽で、その滑稽さがあまりにも痛かった。
「おにーさんは」気管の奥から、声を絞り出す。「――辛く、なかったの?」
「そりゃあ辛かった。自分も死んでやろうかと思ったよ。ていうか、その職場の人間、全員ブッ殺してやろうかと思ってた。そのために本気で、刃物を選びに行ったこともある」
 でもさあ、と男はどことなく間延びした声で続けた。
「一番辛かったのは、彼女が俺に、何にも相談してくれなかったこと、なんだよね。全部一人で抱え込んでさ、俺、二年も付き合ってたのに、全然信頼されてなかったんだな、ぜーんぶ一方的な恋だったんだな、とか思って。それって、すごい嫌じゃん。自分だけずっと道化やってた、みたいな」
 へらへらと笑う男を前に、わたしは目尻を手の甲でぬぐった。だけどね、と男はまた口を開く。
「それでもあいつは、自分が死のうって決めた最後の夜に、俺と一緒にいることを選んでくれたんだよね。すっげえ矛盾してるかもしれないけど、俺にはそれが、どうしようもなく嬉しかった。嬉しくて、死にそうで、だから、まあ、いいかなあって」
 男は頬を緩めたまま、「それで十分じゃないかな――と、思って。彼女は、死にたかったんだよね。たぶん、俺がそれを知ってたところで、どうにかなったわけじゃない。もっと惨めさが募ってただけだよ。知ってるのに止められなかった、ってね。それなら俺は、最後の最後にあいつを癒してあげられていたなら、それでいいんだ。それ以上に、今更、何も望まない。ただ、一ヶ月に一度、あいつが逝った日に、こうやってホームに座って、あいつのこと思い出してるだけだ」
 電車がホームへ滑り込む。それを、何百日も前に、わたしと同じ場所で、じいっと待っていた人がいる。何も考えていなかったのかもしれない。自分の人生を、走馬灯のように反芻していたのかもしれない。そして――今、わたしの隣にいる彼のことを、想っていたのかもしれない。
「おーにさんは、さ」わたしは自分の膝小僧を見つめながら、「好き、だったんだ」
「そう、好きだった。好きで好きで好きで、仕方がなかった」それからにやりと口元を歪めて、「――恋とは不毛なものなのだよ、少女」
「心得ておくよ」
 言って、わたしは立ち上がる。耳の中にはまた、わたしの嫌いな曲が渦巻いていた。女性が、愛した男に必死で想い馳せる曲。歌詞があまりにも粘着質で、情熱的で、とても朝に聴きたい曲じゃない。ただ、以前よりは、この曲の中のオンナの人も必死なんだよなあ、と何となく感じ入ることができた。
「それじゃあ」もう一度袖口で目をごしごしとやってから、「わたしは、行くね」
 あれ、と男は茶化すような声を出した。「友達、諦めたの?」
「何か、どうでもよくなっちゃった」わたしは、ぎこちなく笑ってみせた。ホームの雑音が打ちつけるコンクリートを背景に、それがどこまで不器用に映っているのかは、分からない。「わたしもさっさと家に帰って、恋愛でもするよ」
「いい心がけだ」やけに説得力があるな、と思って、それが妙におかしかった。「おにーさんは?」と訊き返す。
「俺か。俺は」
 男はそう言って、ふっとわたしから視線をそらした。たくさんの人がいるホームの中に、彼が何を見ているのかは、聞かないことにする。きっとそれは、彼にしか見えないし、わたしが簡単に踏み入れられる領域では、ないのだろうから。
「俺は、もう少し――ここにいるよ」
 そう、とわたしは頷いた。「それじゃあ、貴重なお話、どうもありがとう」
 にこり、と男も笑って頷いた。「こちらこそ、ご拝聴ありがとうございました」
 その言葉を最後に、わたしは歩き出す。人の波の中にまぎれ込んで、数秒もしないうちに、背後に感じていた男の視線の気配が、すうっと、消え入った。 

fin
(2008.04.29)

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