|
コール そのメモ用紙には、数字が並んでいた。 それは計算用紙や表のようなものではなく、記号も区切り線もない、ただ一から九までの数字が、ずらりと走り書きされているだけの羅列だった。ところどころに不規則な空白はあるものの、それも丸っきりアトランダムで、雑とも達筆とも言えない微妙なタッチの算用数字は、見ていて目が痛い。数学が嫌いな生徒であれば、すぐにでも目眩を起こしそうだ。 ところが、その数字をずらずらと書き続けている当人は、そんな傍観者の心情など全くお構いなしに、先ほどから十数分、一度も手を休めることがない。俺も負けじと、もう五分以上彼に不躾な視線を送り続けているのだが、その露骨な注視でさえも、彼は一向に無視していた。いや、気付いていないだけだろうか。少なくとも、こいつはまだ一度も顔を上げていないし、俺の存在を認識しているのかどうかも、実際は怪しいところだ。 俺はふと、机を挟んだ真向かいに座る寡黙なクラスメイトから目を外し、体を仰け反らせながらぐるりと部屋の中を見回した。高校の図書室というのは、なぜか、小説や詩集よりも専門書や実用書の方が遥かに多い。一定の通路を空けて置かれている本棚には、年代物であることを自らアピールしているかのような、黄ばんで端のよれた本がたくさん並んでいた。恐ろしく需要がなさそうだ、三年に一度でも貸し出しがあれば、まだいい方なのだろう。「微生物図鑑」なんて、好んで借りていくやつがそうそういるとは思えない。 そんな図書室の中には今、受付の机に突っ伏して穏やかな寝息を立てている司書係の女子生徒と、目の前で黙々と不可解な作業に励んでいる男子生徒、そしてその作業を、数学の教材を広げながら頬杖をついて眺めている俺の、三人しかいない。夕焼けの射し込む放課後の図書室なんてしけた場所、青春を謳歌する学生たちは、進んで訪れたくもないのだろう。俺はこの静かな空間が嫌いではないが、それは個々の感性の問題である。 しかし、いくら個人の問題とはいえ――図書室で、ずうっと数字を書き続けている生徒というのは、果たして、どうだろうか。 「なあ、霧川」 俺がそう声をかけると、霧川は突然、ぷつっと電源が切れたかのように手の動きを止め、非常に怠惰な動作でゆっくりと顔を上げた。小さな顔に、大きな目。霧川とは同じクラスの一員であるが、何度か席が近くなっただけで、あまり喋ったことはない。全体的に小柄で、どことなく小動物然とした彼は、クラスの中では大方、影の薄い存在だった。普段から大人しく、極力口を開こうとしない霧川は、一部の生徒には好ましく思われていない。しかし、男にしては中性的で整った可愛らしい顔立ちをしているので、女子の中には霧川のファンもいるとか、いないとか。 「なに」 ハテナマークすらも付かなさそうな、平淡すぎる声で、霧川はそう問い返してきた。一応、俺がここにいることぐらいは、気付いていたらしい。ならば挨拶の一つぐらいしてくれればいいものを、自発的な行動ができないのか、こいつは。 俺は少しだけ呆れながら、「それ」と、数字で埋め尽くされたメモ用紙を指差す。霧川は、無感情の上に無表情の仮面を被せたような、とにかく人間味の足りない顔つきで、俺の指先を眺めていた。着目したいのはメモの方なのに、俺の指を見てどうするんだ。 「さっきから、お前、何してるんだ?」 最もな質問だと思ったのに、問われた霧川はなぜだか、その時だけ無表情の仮面をちょっとだけ崩して、目を幾分か大きく見開いた。 「なにって」首をかしげて、「――数字を、書いてる。見て分からない?」 いちいち癇に障るやつだ。しかも、言葉の内容はどうあれ、全く嫌味っ気のない口調で言うのだから、余計に頂けない。俺は口元を歪めながら、言った。 「分かるよ。分かるけど、何で霧川がそんなことをしてるのかは、分からない」 「あ、そう」霧川は興味なさげに頷いて、俺の方を上目に見据えた。「それで、何?」 どうやら霧川は、会話の前後関係やらその場に流れている空気というものが、全く理解できていないらしい。いい加減俺も飽き飽きしてきて、だから、と語尾も自然に憤る。 「霧川、お前はどうして数字を書いてるんだ?」 「どうして」霧川はそう復唱してから、「ううん――趣味、かな」 ふざけるな。思わず睨みをきかすと、霧川は少しだけ頬を緩めて、「嘘だよ」と言った。そういえば、こいつが少しでも笑った顔なんて、初めて見た気がする。何があっても笑わない、ポーカーフェイスで寡黙な少年とは、また一味、違うみたいだ。霧川はどこか不器用な笑みを浮かべたまま、「僕はね」と続けた。 「僕は、数字を書いてるわけじゃないよ」 は、と無意識に喉の奥から間の抜けた声が出る。 「どう見ても、数字だと思うけど」 「そりゃ、数字だよ。ただ、僕は個体としての数字を、書き殴っているわけじゃあない。この数字は――電話番号、なんだよ」 「電話番号」瞬時に俺の頭に浮かんだのは、なぜだか旧式の黒電話だった。番号をくるくると、軋み音を上げながら回す真っ黒い電話。普段は、携帯電話の小さなボタンを爪の先で押し続けているというのに、人間の想像力は時に妙な暴走をするらしい。厄介な代物である。 「その数字が、電話番号の羅列だっていうのか?」 こくん、と霧川は頷いた。「そう。だけど、羅列じゃない。この番号は、それぞれがきちんと意味のある並びなんだ。僕は、とある番号を探しているから」 電話番号を、探す。主語と述語の繋ぎ目が、どうにもおかしいような気がした。しかし、霧川はそれがさも当然なことのように話すので、無闇に詮索するのも憚られる。どんな番号だ、と尋ねると、霧川は学ランの詰まった襟首を細白い指でくいっと引っ張りながら、 「――ミライ」と、言った。 「みらい?」 「そう、未来」呟いてから、「僕はね――未来に繋がる電話番号を、探しているんだよ」 一般的な常識人を自負する俺は、咄嗟にはその言葉の意味が分からずに、しばらく逡巡してしまった。霧川の、高くも低くもない、抑揚とテンポに欠けた声が、鼓膜からすうっと入って、頭の中をぐるぐると回る。こういう詩的な言葉は、あまり、好きではない。 「お前さあ」俺は、ふう、と胸中に溜まった苛立ちを溜息に乗せた。「本気で、言ってるのか?」 「冗談を言ってるように見える? 酔狂かな、僕は」 「見えない。だけど、今時、幼稚園でぎゃあぎゃあ泣き叫んでる幼児だって、もうちょっとリアリティのあることを言うぜ」 現代の子供を甘くみてはいけない。俺が、年の離れた弟にアクションゲームで連敗した際、心に刻んだ座右の銘である。弟の、少々人離れしたコントローラーの手さばきを見ていると、いつの間に日本の子供は完全な屋内型となってしまったのだろう、と嘆かわしくもなった。俺が節操のないガキだった頃は、まだ公園にもそれなりの需要はあったのに。 「リアリティ、ね」霧川は小さな頭をかしげて、「実際、そこまで不可能なことでもないんだよ。この話」 「なあ、霧川」俺はにやりと笑って、「ベルは、距離を越える通信手段を発明しました。ですが、いくら彼でも、時間を越える通信手段は、発明しておりません。知ってる?」 「知ってるよ」 霧川はにこりと笑い返してきた。せっかく茶化したのに、こうも真面目に答えられては、俺の立つ瀬がない。どことなく肩を狭めながら、俺は半ばムキになって言った。 「じゃあ、どうして不可能じゃないんだ。お前が発明したのか、未来にかかる電話」 「違う。ただ僕は、そういう電話を発明しようとしてるんじゃなくて、ただ、番号を探しているだけだ。未来にかかる番号はね、どっかには、あると思うんだよ」 「どうしてそう言い切れる? 根拠も理屈も、見当たらないが」 「うん――そうだな、例えばもしも未来に繋がる電話が存在したとしようか。とりあえず、もしそんなことがあれば、それは間違いなく『非現実』としての一端だ。非日常、つまりファンタジーだね。ただ、これだと何の理屈付けもきかない。ってわけで、これは捨てる」 突然饒舌になった霧川に、俺は多少驚きながらも、「ああ」と相槌だけ打った。 「で、屁理屈を捏ね繰り回すと、次に浮かんでくるのは『留守録』の手段。留守番電話の機能だね。けど、これだと時間を越える際に、それと同じだけの年月を必要とする。こちらから留守録に音声を吹き込んで、じいっと長い年月を待って、そしてその後に再生するんだ。まあ、ある意味でそれはタイムカプセルと同じ意味での時空超えだけれど、リアルタイムで未来にかかるわけじゃあない。ってことで、これも却下」 達者に話し続ける霧川の目には、喜色が浮かんでいる。随分と楽しそうだな、と思った。こういう詭弁を語るのが、案外好きな性分なのだろうか。 「でね、これが一番信憑性が高いかな。ええと、俗説で言うタイムスリップってものはさ、光よりも速い速度で移動すれば、可能だとも言われているよね。学的にいえば、相対性理論とかワームホールとか関わってくる、キップ・ソーンの説かな。半分、サイエンスフィクションのようなものだけど――まあ、そんなことはいいや」 霧川は、一度くしゅん、と小さな咳きをした。狭苦しい図書室の中に、その微かな音だけがやけに大きく反響する。霧川は鼻の下を袖口でぎゅっとぬぐってから、また口を開いた。 「ええと、光の速度はね、毎秒二十九万キロぐらいだ。一秒間に地球の周りを、びゅーんと、七周半。つまり、電話の時空間を捻じ曲げるだけなんだから、僕らが移動するわけじゃない。飛ばすのは人間や機械じゃなくて、電波の方だよね。ってことは、電波の速度を、秒速二十九万キロよりもおっきく、速くすればいい。そうすれば、まあ、理屈的には、未来への電話も可能かも、しれない」 「ただの理論だろ、それは。完全な屁理屈じゃねえか」俺は顔をしかめてみせる。よくもまあ、ここまで達者な舌を持っているものだ。 「光の速度より、速い電波。そんなのが、あるのか?」 「光ファイバー、ってのがあるでしょ」霧川はへらりと気の抜けた笑い方をしながら、言った。 「あの、インターネットとかに使われてるやつ。電話でも使用されてるよね。声をゼロとイチに変換して送る、っていう手段。光の点滅っていうのはね、一秒間に十六億回だから、きちんと伝わる。光の速度は、音の速度よりも、うーんと、速い。だからさ、可能な限り光の伝達速度を速めて、そこで何かの衝撃が起これば、びゅんっと時空回線までねじれてくれる、かも」 「かも、だろ。仮定形だ」 段々と、俺の方が屁理屈じみた応答になってきている。霧川はどれだけ相手が皮肉を口にしようと、決してそれに反駁しないのだから、いけない。素直に頷いた上で、正論をもってしてそれを切り返してくるのだ。若者にとっては、一番扱いにくくて、一番、鬱陶しい人柄。世の中が正論で埋め尽くされれば、人間の半分ほどは行き場をなくすのだろうな、と思った。だから正鵠を射た発言は嫌われるし、理想論や机上論なんて、はなっからコケにされるのが落ちだ。 「うん。もちろん、仮定形。僕は学者でも何でもない、ただ青臭い意見を主張して満足する、一介の高校生にすぎないよ。そんな僕が、フィクションじみた空論をべらべらと喋ったところで、別段、なにってわけでもない。僕は今言ったことを実験しようとか、そういう気は、さらさら、ないんだし」 でもさ、と霧川は、またふっと無表情になって、虚空に視線を這わせながら言った。 「でも、人間、夢物語を語るのは自由だよね。僕は、いろいろ、考えた。考えることは、連鎖反応でしょ。一種の鎖のようなもの、かな。先端が問題提起、つまり発案。で、もう先っぽが、最終的に行きつく、結論。その間は、小さな輪っかが、ずうっと続いてる。一個の輪が一つの思想、観念だと思えばいい。それが一個ずつ絡まって、接触している場所が連鎖。最後には先っぽの帰着点に行き着く、これが人間の一つの思考回路――」 「大層な比喩だな、それは」 俺は頭の中に、アクセサリーとして所持しているチェーンベルトを思い浮かべた。もしあれが人の思念そのものだとしたら、多くの若者が知らずのうちに、それを自分の身からぶら下げていることになる。けれど、それはそれで、的を射たメタファーかもしれない。青二才の虚勢を張った観念なんて、その辺にぶら下げて無防備に放っておくぐらい、粗末なものだ。ただ、そこから成長していくのが、人間の特徴と言うだけのハナシ。 「うん、まあね」霧川はそう頷きながら、窓から差し込む赤い光に、少しだけ眩しそうに目を細めた。霧川の白い顔が、一瞬だけ緋色に染まる。霧川はそれを手で遮って、日射から逃げるように上体をぐっと後ろへそらせた。 「ただ、これで問題なのはね、一概に鎖だと言い切っても――その鎖は、途中で途切れていることが、ほぼ前提なんだ」 俺の頭の中のチェーンベルトが、半分のあたりでポキッと二つに折れた。 「それは――結論には、辿り着かない、って、ことか?」 「そう。ほとんどの場合、思考なんて、生まれるばっかで放っておかれる。幕引きされることなんか、ほとんどない。特に哲学なんかの、取り留めもない観念論でいえば、なおさらだ。科学や物理ならまだ、発見や成功という段階で、それが最後の輪っかになるかもしれない。けど、そこまで何かを極めた人たちっていうのは、大概野心家だろうからね。もっと奥底まで、追い求める。そうすれば、チェーンの終わりは、まだまだ訪れない。まあ、自分で求めた継続なら、それは、すごくいいかも、だけど」 「ああ」俺は前髪を払いながら、首をひねってみせた。この詭弁の行き着く先がどこか、なんとなく分かった気がして、唸った後に続けて、口を開く。 「だけどお前は、続くことを求めてなんか、いないんだ。できることなら、さっさと終わりたい。そうだろ?」 「どうして、そう思うんだい」霧川は無表情の上に微笑を重ねた。俺はその不適な視線に顔をしかめながら、言う。 「だって、お前にとっては、『未来に電話をかける』っていうそのものが、終着点じゃないんだからな。目的は、暗に隠れた下、別にあるわけだ。大抵の人にとっても、結論と目的は、別物だろ? 離れてるとはいわないけど、互いに連鎖があるだけで、一致じゃない。結論が出て、そこで一旦の終わりを迎えたとしても、それを目的へと結び付けなきゃ――意味が、ない」 うん、と霧川はまるで他人事のように首を振った。俺は、なら、と続ける。 「それなら、霧川の場合は、どうだろう。未来に電話をかけたい。それは、未来を見たいっていう好奇心とは違うよな。電話、つまり未来の誰かと会話が繋がるってことだから、安直に考えて、それは情報の伝達ってのが一番にくる。つまり、お前は、未来の何かを、知りたいんだ。鎖が続く最後の輪っかは、終着点。なら、その輪っかは、問題が提起された時点で、すでに存在している。そこに繋がるまでの過程が、難しいだけで」 ふう、と息をつく。自然と台詞が強張って、濃い色になっていくのを、抑えきれなかった。声のボリュームを落とし、できるだけ冷静な口調になるよう気をつけて、俺は静かに続ける。 「霧川にだって、最終地点は、分かっているはずなんだ。お前は――何を、知りたい?」 霧川は、一度ははっと渇いた笑いを響かせてから、面白いね、と言った。声をあげて笑う霧川を見るのも初めてで、今日は発見の多い日だな、と頭の隅でちらりと思う。毎日が発見だらけの世の中、なんて新鮮なことはそうそうないけれど、一年に一度ぐらいは、こういう日があってもいい。日常の高低をつけるには、十分だ。 「その質問って、普通に考えてれば、すぐに出た疑問じゃない? それこそ鎖なんかなしに、一直線で繋がってる問いなのに」 「お前が色々と話を歪曲させて、はぐらかすからいけないんだろ」 「そんなつもりは、なかったんだけど」霧川はうーん、と首をひねった。「その質問――答えなきゃ、駄目かな」 「ここまで与太話に付き合ってやったんだ。拒否権も何もないだろ、雑談の相手をしてやった代償として、それぐらいは明かせよ。大体、ここで話を止められたら、後々気になって仕方ないさ」 俺は元から、あまり好奇心の強い性格というわけではない。しかし、ここまで引っ張られては、気にならない方が、どうかしている。単なる探究心であれば、霧川だって率直に「未来へ行きたい」と言っているはずだ。しかし、「未来に電話したい」と言うのであれば、それは好奇心というよりも――目的がある、という方が、しっくりくるだろう。 「そう。それじゃ」霧川はゆっくりと、薄い唇を開いて、小さく呟いた。 「僕は、未来に――過去へ電話することが可能になっているかどうかを、知りたかったんだ」 「それ、って」瞬時には言葉の意味を把握できなかった。口をぱくぱくとさせている俺の前で、霧川は眉根にしわを寄せたまま、言葉を紡ぐ。 「将来的にさ、過去へ電話することが可能になっているなら、今この時点で、僕には未来への電話がかかっているはずだ。そうでしょ? 例えば、今から何年後かに、過去へ繋がる電話回線が誕生したとしようか。さて、未来に生きる僕は、その時こう思うはずだ。『ああ、あの時の自分に電話してやろう、当時の自分はあんなに頑張ってたんだからな』――、ってね。そうすれば、今この時点で、僕には未来からの電話がかかっている。かかっていなきゃ、いけないんだ。僕はもう二ヶ月も前から、この作業を続けているんだしね」 言いながら、霧川は数字で埋め尽くされたメモ用紙を指で摘んで、ひらひらと揺らした。 「だけど――僕にはまだ、未来からの電話は、かかってこない。これだけ時間を費やして努力したなら、将来の僕が、このことを失念しているはずはないと、思うんだけどね」 「つまり、さ」俺は慎重に言葉を選びながら、「霧川がその番号、未来へ通じる電話番号を探していたのは、絶対に無理だというのが大前提で、本当の目的は――自分への意識付けだった、ってことか?」 正解、と霧川は柔和な微笑みを見せた。 「そうだよ。記憶の中に埋め込んで、将来の僕が、当時の努力を忘れないようにするため。もし、未来の技術が発達していれば、今の時点でちゃんと、未来との情報通信ができていたはず、なんだけど――」 霧川は両手でメモ用紙の端と端を摘んで、自分の顔の前に持ち上げた。沈みかけていく夕日が、最後の光を室内に灯していく中、霧川の顔はメモ用紙の向こうに透けて見えた。 「残念ながら、電話は、来ない。ならば、それは――僕の生きている間には、まだそこまで技術は進歩しない。あるいは、それが完成する以前に、僕が死んでいる、ってことだ」 薄い紙を挟んで、霧川の片頬が歪む。霧川の手は、あと少しだけ力を入れることを我慢してか、小刻みに痙攣していた。ごくん、と俺は喉を鳴らす。何かが気管の奥を切迫して、真正面のクラスメイトに対する、怒りとも哀れみともつかないものが、胸中を支配していた。 霧川は一度、すうっ、と大きく息を吸う。 「どっちにしたって、結局、こんなものは」 ビリッ、とやけに綺麗な音が図書室の中に反響して、俺の耳朶を震えさせた。思わず耳を塞ぎたくなるが、その次に霧川の唇から吐き出された言葉が、動こうとした俺の手を硬直させる。 「――無意味、だよ」 そうして、数字は、破られた。 fin (2008.05.11) |