メのはなし

 今年の夏はメがやってきた。メっていうのはそれの名前で、それというのはよく分からないぐちゃぐちゃしたモノ。メはちっちゃなフィルムケースの中に入っていた。フィルムケースにはラベルが貼ってあって、そこには細かい大人の人の字で「メ」とだけ書かれているのだ。だからぼくは、それにメという名前をつけた。
 メは、終わりかけの夏、日射しの厳しくて顔全体から汗がだらだら噴き出してくる時期に、突然ぼくの前に現れた。いや、そんな言い方はおかしいのかもしれない。ちょっとその出会いを格好よくしたかっただけだ。本当のことをいうと、メはある日突然ぼくの机の上に置かれていた。
 初めは当然、ぼくも驚いた。誰が置いていったのだろうかと疑問に思い、フィルムケースを右目でじっくりと観察した。その中でたぷんたぷんと揺れる半液体状の白濁したモノは見ているだけで気持ち悪くなった。ビー玉ぐらいの丸くて黒いモノもその中に混じって、フィルムケースを横にするとゼリーみたいに移動した。
どうしようかと悩んだ。いらないなあ、と思った。ゴミ箱に捨てようと的確な判断をして立ち上がりかけたとき、メは突然「やめてくれ」といった。メは喋ることができたのだ。口は見当たらないけれど、確かにその声は手の中のフィルムケースから響いているのである。
 ぼくはちょっとびっくりしたけれど、すぐにメと仲良くなった。メは話してみると気さくないいやつで、年齢もぼくと同じぐらいに思えた。ぼくはあまり友達の多い方じゃなかったから、何でも言い合えて完全にぼく一人のための存在であるメをとても気に入った。今この時点で「親友は誰ですか」と訊かれたら、ぼくは迷うことなくメだと答えただろう。
 毎日フィルムケースと一緒に学校へ行き、一緒に授業を聞き、一緒に下校するのが日課になった。メはいつもぼくの胸ポケットに入っていた。そこから小声で色々話しかけてくれるから、ぼくは休み時間をいつもより有意義に過ごすことができた。いつもなら一人で机に突っ伏しているだけだったのに、今はメという友達がいて、始終ぼくに話しかけてくれる。そのことが何よりも嬉しく感じた。
 不思議なことに、メの声はぼく以外の人には聞こえないみたいだった。メはそれについて何も説明はしてくれなかったけれど、メが時々声を荒げて笑っても誰一人振り向かないから、恐らくメの声はぼくにしか聞こえていないのだ。だがしかし、メに語りかけているぼくの声は、周りに聞こえてしまう。これでは漫画などでよくある、いわゆる「変人」になってしまうとぼくは危惧し、ある日その恐れをメに告白した。
「大丈夫だよ、僕と君は脳で繋がっているんだ」怯えたぼくの口調に、メは優しく言った。「声なんて出さなくても僕たちは通じ合える。心の中で思うだけでいい。僕はそれで、君の言っていることが分かる。君も、僕の言いたいことぐらい通じるはずだよ」
 やってみると、それはとても簡単なことだった。耳から聞かなくとも、メの声は脳の奥から直接響いてくるのだ。そして、ぼくの声も正確にメに届いた。ぼくたちの会話は声を出す行為を飛び越え、それからは余程のことがない限り、ぼくたちは脳で会話をした。
 メがいる毎日が続いた。ぼくはだんだん、メとしか話さなくなった。というよりも、メがいればそれで十分だったのだ。ぼくの周りには元から極少なかった友達も離れていき、学校でのぼくは完全に孤立化していった。一日一度も喋らずに下校するなんてよくあることだった。見かねた先生は何度かぼくに注意をし、大丈夫かと心配そうな顔で面倒くさそうに尋ねてきたけれど、ぼくはほとんど反応を見せずにはぐらかしていた。ばからしい、と思った。ぼくにはメがいるのだから他の友達など必要ないのに、なんで先生たちは一々突っかかってくるのだろう。
 あまり外に出なくなった。学校と週一回の通院に行く以外、ぼくはほとんど自室に閉じこもってメと話していた。親はそんなぼくを心から心配してくれたけれど、それにはやんわりと笑顔を返しておいた。大丈夫だよ、といった。ぼくには最高の相棒で永遠の味方がいるんだ、というのは心の内に留める。メは、自分の存在を回りに公表するのだけは止めてくれ、とよく言った。理由までは喋らなかったけれど、メの望みであればぼくには断る理由などなかったから、ぼくはメのことを誰にも言わなかった。
 やがて、秋が去って冬が来た頃、突然ぼくの体に異変が訪れた。去年の夏にぼくは一度交通事故にあい、それで顔を損傷して左目を失っていたのだけれど、いつも閉じて眼帯をしているそこが急に痛みだしたのだ。少しぐらい痛むのならしょっちゅうあったし、ずきずきして眠れない夜もたくさんあった。今でも週に一度、病院で薬を受け取っている。
 けれど、その時感じた痛みはそれらを遥かに上回る耐えられないほどの疼きで、全身の痛覚がいきり立ってぼくを襲っているみたいだった。顔が裂けて何かが出てくるのではないだろうか、と不安になった。左目の位置から全身に伝わっていく、神経の一本一本が千切れる感覚は、正気を奪い失神する寸前までぼくを痛めつけた。
 救ってくれたのは、もちろんメだった。メは、呻きながら床を転げ回り空洞の左目を掻き毟って顔中血だらけにしているぼくに、落ち着いた声で優しく語りかけた。
「大丈夫だよ」とメはいった。「落ち着くんだ、その痛みを止める方法を、僕は知っている」
「なんだって」ぼくは目蓋の中に突っ込んでいた指を引っこ抜き、どろっとした赤い粘膜のついた手でフィルムケースを力強く握った。不思議なことに、それだけで痛みが少しだけ和らいでいく気がした。メは優しく笑い声を上げながら、焦るんじゃない、とぼくを窘める。
「いいかい、これからぼくの言う通りにやるんだ。そうすればきっと君の痛みは止まる。できるね?」
 メは言って、ぼくはこくりと頷いて、それからメはその手段についてぼくに説明した。
 それはとても手荒で怖くて痛そうな手段だったけれど、これ以上の痛みなどないんだとぼくは自分を納得させて、メの言うこと一字一句に従った。第一、ぼくはメの言うことであれば何でも聞き受けたし、メが間違っていたことなんて覚えている限り一度もない。メに反論することなんてぼくにはできなかった。
 そして、メの言葉通りにそれを終えた後、さっきまであれほど感じていた痛みはいきなりすっと止んだ。
 そして、ぼくは左目と同じく空になってしまった右の目蓋を触り、光を完全に失ったことを知った。
 そして、手の中で先程よりも少し重くなったフィルムケースを、ぼくは血に濡れた手でぎゅっと握った。
 メは、盲目になったぼくに優しく言う。
「ほら、僕は間違ってなかったろう」「ほら、僕は間違ってなかったろう」
 フィルムケースの中の白濁した半液体状のモノは前の二倍に増え、ビー玉みたいな黒く丸いモノも二つに増えていた。ぼくがさっき、自分の手でこの中に入れたのだ。
「僕はもう十分だ」「僕はもう十分だ」
「これでようやく片割れと出会えた」「これでようやく片割れと出会えた」
「もう君に要はない」「もう君に要はない」
「大切な右目に会わせてくれて、どうもありがとう」「大切な左目に会わせてくれて、どうもありがとう」
 声は二重になってぼくの聴覚を刺激する。ぼくはぼくの目が入ったフィルムケースの蓋を開け、次に目が何かを喋る前に、その中の二つの眼球を床にぼとりと落として拳で何度も何度も叩いた。悔しくて悲しくて涙が出そうになった。けれどぼくにはもう涙を作る器官は残されていない。
 ぼくは泣いた。何度も何度も、泣いた。目は最後にぼくを嘲った。やがてその笑い声もすうっと遠のいて、ぼくの脳の奥底に沈み、そして、消えた。
 それから、床でぐちゃぐちゃになったモノが喋ることは一切なかった。

fin
(2007)

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