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ミライスナバ 「それ、踏んだら、いけないよ」 その声は足元から聴こえました。私はその日、少しばかり洒落た格好をして、背の高いヒールなど履いておりましたから、ただ道を歩くだけでも、いちいち気を配っていました。都会の、コンクリートで固められた道を行くと、この奇妙な形の靴は、コツコツと喧しい音を鳴らします。 しかし、今私が立っているのは、柔らかい砂が降り積もった、三畳の広さもない小さな砂場であります。砂の上では、このノッポの靴は、まるで音符を刻みません。私はそのことに少しだけ安心しますが、けれど私は決して、あのコツコツが嫌いではないので、これが鳴らないとなると、何となく寂しくも思われます。立派なステレオはあるのに、そこで流すCDが逐一消えてしまったかのような、つまらぬ心地です。 さて、その狭い砂場には、私が立ち入る前から、小さな少年がひとり、背中を丸めて縮こまっておりました。ただ棒のように砂場の上に立ち尽くす私と、まだ年端も行かぬ、五六歳の少年。傍目には、弟を見守る姉か、もしかしたら子を見守る母のように、思われたかもしれません。しかしながら、私とこの少年は、その時初めて顔を合わせた、まるで見知らぬ他人同士でありましたから、当人であるところの私たちにとって、二人の間に流れる空気は、決して平穏とは言い難い、何やら刺々しい色の混じった、どうにも居心地の悪いものでした。 五分ほど、私たちは同じ敷地内に二人きりでいながら、何の言葉も交わさず、それぞれの時を過ごしていました。が、少年は唐突に、私と少年との時間の針を、ポンとぶつけ合わせたのです。少年が、私に声をかけることによって、私たちの時間はつかの間、融合することとなりました。 溶け合わさった時間が、再び離散するのには、これにもまた、しばらくの時を有すでしょう。これはもう、仕方のないことに思われたので、私は少々、厄介だという腹心を抱きながらも、なるたけ優しい口調で、少年に返事をしました。 「坊や。何を、踏んではいけないのかしら」 少年は私の足元に、膝を折って座りながら、ついと私を見上げました。そこで、私ははっとしました。その少年は、まるで少女のように美しい少年であり、幼いながらも十分に整った顔立ちと、繊細な綿のような白い肌、そこに嵌ったくりくりとした丸い両目など、全てがやけに愛らしく、それはさながら、外国の天使のような印象を醸し出しておりました。 私はそんな、予想外の少年の姿形に驚き、そして同時に、何やら得も知れぬ後ろめたさを覚えました。 こんなにも美しく愛らしい少年が、砂場でひとり、ポツンと砂いじりをしているのには、きっと何か、薄暗い事情があるに違いないのです。子供はその容姿、性格に関係なく、全て愛されるべき存在であることは明白ですが、しかし多種多様な人間が跋扈する世の中、時には残酷非道な、悪い親というものもあります。 しかし、この少年は普通の子供以上に、愛されて然るべき容姿を持っているのです。もしこの少年が、悪い親の腹から生まれ出た子供であったとしても、彼は、必ず愛されるでしょう。少年は、悪い親の心をも揺るがすだろうほどの、驚くべき美貌を宿しているのです。こんな少年を愛さない親が、一体、世界のどこにおりましょうか。 ですから私は、この少年をひとり砂場に放っておく、今だ顔見ぬ彼の両親に驚き、そしてまた、憤りました。彼らは果たして、いずこにいるのでしょう。愛すべき、愛されるべき少年を捨て置いて、彼らは何をしているのでありましょうか。ああ、想像もつきません。この少年を守るべき以上の用事など、私には到底、理解が及びません。 けれど、事実、この少年は今、砂場の中で私と二人きりであります。 少年はその、桃色の唇をゆっくり開いて、笑いも泣きもしない無表情で、私に言いました。 「お姉さん。そんなに、無意味に、砂場の砂を踏んでは、いけないんだ」 「どうして」 「ここの砂場は、だめなんだよ。ほかの砂場とは、違うんだよ」 「なぜ」 「特別なの。ここの砂場は、ミライの、砂場なんだ」 少年は、一生懸命、私に何かを悟らせるように、拙いながらも熱弁を奮っておりました。ミライ、と、私が問い返しますと、少年は大きく頷き、近場の砂を右手でスイとすくいとっています。 「ミライだよ。未来。ここの砂はね。ミライをね、映すのさ」 喋りながら、少年は砂を溜めた手の平を、真上へと持ち上げます。数秒もしないうちに、少年の指の隙間から、黄土色の砂はパラパラと零れ落ちてしまいます。が、少年はまるでお構いなしに、今度は左手で、砂をすくっては、また、パラパラとそれを零しました。達成感のない行動のように思われますが、少年はそれが楽しいのでしょう、何度も何度も、左右交互の手で、同じ行為を繰り返しておりました。 「どうやって、映すのかしら」 私は多少の興味を惹かれ、そう質問しました。つまらない子供だましだ、という考えも少なからずありましたが、しかしながら、私はこのようなファンタジックな行動や考えが、嫌いではありません。幼い頃の私は、小学校の高学年に進級するまで、半ば本気で、祖母の家のクローゼットの奥には、別世界への扉が開いていると、信じて止まなかったのです。ただ、戻れなくなったら恐ろしいから、という単純な理由で、私はその事実を確認しようとはしませんでした。夢は夢のままに、記憶に沈めておくのが良いのでしょう。 少年は、うふふ、と、その時初めて、私に笑い顔を見せました。 「お姉さんのミライも、見てあげようか」 「どうやって見るのよ」 「食べるんだよ」 言うが早いが、少年は突然、手の中に溜めた砂を、自分の口の前に運びました。あっ、と驚いた私が声を発するより先に、もう少年は、その砂を口内に放り込み、ゴクリと、喉を鳴らして飲み下しておりましたので、私には、止める間などまるでありませんでした。 「何をしているの。お腹、壊すわよ」 「大丈夫だよ」 「胃袋の中に砂場ができるわ」 「できないよ」 少年はまた、うふふと天使の微笑を見せて、すっくと立ち上がりました。起立した少年の背丈は、しかしそれでも、私の腹のあたりに、ようやく頭が届く程度のものです。ですが、座っていた時よりかは、少年の視線は明らかに、私の近くにありました。私と少年との、縮まった距離感は、ぶつかった時間の表面に、ギスギスと不穏な音を鳴らさせておりました。 「お姉さん。ねえ」 少年は、首を上げて、私の両目を、真っ直ぐに見据えています。その、薄いブラウンがかかった、美しい瞳。長い睫毛の下でくるくると円を描くその瞳の中心が、私を耐えず直視していることに、その時、真に恥ずかしながら、私は一種の恍惚感さえ、この胸中に抱き始めておりました。少年はそれほどに美しく、他人を魅了す、憂いを携えていたのです。それは年齢差、性別などの域を軽く飛び越えて、他人を引きずり込むのです。まあ、なんと、恐ろしい少年がいたものでしょうか。 しかも、この少年は今、私のミライを覗いているのです。 「お姉さんはねえ、もう一度、電話をかけるよ」 「電話」 「うん。そして、もう一度だけ、言うんだ。あなたと、一緒にいたいって。もう一度、言うんだよ」 私は、少年の口から吐き出される言葉に、目を見張る思いでありました。知らぬうちに、私は、少年に更なる質問を投げかけていたのです。 「そして、どうなるのかしら」 「お姉さんは、もう一度、会うことになる。会って、一緒に、ごはんを食べるね。二人のお気に入りの店だ」 お気に入りの店というのは、私が彼とよく訪れた、駅前のイタリアン・レストランのことでありましょうか。私がそのような考えを巡らませていますと、少年は大きく、首を縦に振りました。 「お姉さん。お姉さんはね、今度はね。きっと、上手くいくよ」 「どうして」 「ミライではね。二人は、ちゃんと、一緒に歩いてるもの」 少年は、そう言いました。私に言い聞かすような口調で、私の下から、必死で、上の私に、少年は言葉を投げかけました。私は、それは本当かと、少年に尋ねようと思いましたが、彼の顔を見て、それは愚問だと気付きました。少年の表情は、その時、とても幸せそうなものでありましたから、きっと、私のミライにも、その幸福は降りかかっているのだろうと推測しても、ばちは当たらないでしょう。 「では、私は。もう一度、彼に、電話をかければいいのね」 「かけなければ、始まらないだろうね」 「そうすれば、私と彼は、また、一緒に過ごせるのね」 「さぁね。ただ、ミライの砂が、そう言っているんだ。お姉さんが、恋人に見せるために買った、その綺麗な靴は、決して、むだにはならないでしょう、ってね」 この少年は、どうしてそこまで、私のことを知っているのでしょうか。私には、不思議でなりません。この砂は、本当に、その黄土を口に含むことによって、その人物にミライを見せるとでもいうのでしょうか。ミライとは、この砂粒の中に、隠されているのでありましょうか。私のミライも、この砂場に積もり、埋もれて、他の誰かのミライと一緒に、この狭い海の中に、沈殿しているのでありましょうか。 恋人と喧嘩別れをした私のミライも、この砂場の中に、ばら撒かれていたのでしょうか。 「お姉さん。きっと、幸せになるよ」 少年の笑顔に勇気付けられ、私は静かに、頷きました。少なくとも私は、自分自身が、決してこの少年よりは、不幸な身ではないと思いました。 なぜかは分かりませんが、私には、今目の前にいるこの少年が、その時どうしようもなく、この世でもっとも不幸な存在あるかのように、感じたのです。それは、私の幸せを暗示してくれる、この天使のような少年が、自分のミライについては、何ひとつ語らず、また、覗こうともしなかった、そのような事実が、私に、この少年の不幸を伝えておりました。 ですから私は、この少年のミライも、ここはひとつ、覗いてやろうと思いました。例え何も見えなくても、真似事だけで、少年に幸せを提示してやろうと思いました。嘘八百であっても、幸せを吐き出す嘘は、誰かにとっての救いに成り得るのです。まさに、現在の私が、そのような状況にありましたから、私はこれを、少年にもやってやろうと、そう考えたのであります。 しかし、ああ、本当に。本当に、不思議で、悲しい結末でありました。 私が膝を折り、片手で砂をひとすくいして、つと、姿勢を戻した時、その時にはもう、その少年は、私の目の前から、姿を消していたのです。それまでそこにあった少年の姿が、今はどこにもなく、私の目の前にあるのは、ただただ何の気配もミライもない、ただの空気のみだったのです。 私は、その事実にしばし呆然とし、と同時に、ひどく泣きたい衝動に駆られました。わずかの間だけでも、私と少年の時間とは、確かに融合していたのであります。ぶつかり合い、始めは心地が悪いと毛嫌いしておりましたが、いつの間にか、私はその時間の間に、彼に救われていたのでありました。それまで、絶望的ともいえた私の胸中が、今はどこか、晴れやかな色さえも、輝かせているのです。 ですのに、こんなに絶妙のタイミングで、私と少年の時間はまた、離散してしまいました。砂場と、ミライだけを残して、少年の空気は消失してしまいました。一体、彼はどこへ消えたのでしょう。一体、彼は本当に、実在する少年であったのでしょうか。私と少年の、交差し合った時間の切れ端は、一体、いずこへ。 呆然とする私の手の中で、すくいとったミライの砂は、パラパラと、指の隙間から零れ落ちて行きます。 そして、最後に、手の平の窪みに残ったわずか少量の砂を、私は、もうミライを見るべき人間もいないのに、どうしても遣る瀬無く、半ば反射的に、口の中に放り込みました。砂は、砂の味がしました。砂の味以外に、何の味覚も、反応はしませんでした。歯で噛み締めると、ガリッという音が、鼓膜に響きました。 砂は、砂のままでありました。ミライなど、一向に見えはしません。ですが、私には、それで十分でした。私には今、ミライがあるのですから。少年が私に示してくれたミライを、私は、実現の道へと、進もうとする所存であります。それが少年への、わずかながらの感謝と、そして、敬意のように思われます。 ですから私は、少年の霧散した空気の中で、愛しの彼への電話をかけることにして、このつまらぬ、独り言めいた散文的なお話に、終わりを告げることに致しましょう。 この砂場の中に転がる、無数の者たちのミライに、私は、絶え間のない祈りを捧げます。どうか、お幸せに。それが、少年の言葉であり、砂の見せる、永遠の、あなた方の生きる、未来なのですから。 その砂場が、一体どこにあるのかは、あなた方それぞれの考えに、お任せしておきましょう。 fin (2009.02.27) |