猫を持ってお出かけください

 日曜日に雨は降るはずがないんだ、とシューは言う。
「日曜日はそういう運命なんだよ。雨が降らない運命」
 うんめい、と君は口の中で繰り返す。君は今朝、ぱちぱちと映る二十五インチのテレビで天気予報を見た。東日本ハ、全域雨ニナルデショウ。小さな画面の中で、日を追うごとにぽっちゃりとしていくNHKのお姉さんはそう歌った。彼女は歌うように喋るのだ。
 彼女はここ数日、毎日同じフレーズを歌っている。君はそれを知っている。
 雨ハ日曜日マデ続く見込ミ。
「だからハナ、お前は日曜日に学校に行けばいいよ」
「にちようびは、がっこう、ないよ」
 そう、日曜日に学校はない。日曜日というのは一週間の中でも、ひどく珍妙で奇怪な曜日だった。みんながみんな、午後になるまでグスゥと寝入る、お休みの日。けれど時折、休まない人もいた。日曜日がお休みでない、変わった人々もたくさんいた。
 例えば君の両親は日曜日でも、君を放って出勤した。君が十二時を回ってようやく布団から抜け出すと、テーブルの上には朝食が乗っている。大抵それはサンドウィッチだった。パンのミミが付いたままのサンドウィッチ。具はぐちゃぐちゃに潰された湯で卵であったり、総菜屋のハンバーグであったりした。
 君が好きなのはバナナの入ったサンドウィッチだ。
 それらはいつも冷えていた。君はNHKのニュースを見ながらそれを食べる。バナナは一ヶ月に一回。別に嬉しくはない。嬉しくない範囲で、少しだけ嬉しい。たったそれだけ。パンのミミはいつも固い。
 だから君は、日曜日が好きではない。
「ないわけじゃないよ。日曜日にだって、学校はやっている。雨が降っていない日なんかは、特にね」
 どうして、と君はシューに尋ねる。シューは君の兄貴だ。シューは今年中学に上がった。制服姿のシューは、君の想像を絶するほど決まっていた。彼は大方の人が納得できる美少年で、美少年には当然のように、学ランがよく似合った。初めて制服の袖に腕を通したシューは、君に笑いかける。
「ほら、イカすでしょ。これ」
 うん、イカすね、と君は答えた。そしてシューは小学校を卒業して、中学生になった。
 君は、小学校に残された。ひとり。
 君が小学校に行かなくなったのは、その頃からだ。
「日曜日にはね、校門の前にイヌがいるんだ。そのイヌが日曜日の学校の支配者。ガッコウセイフク。だから日曜日ってのは、彼らにとっての、週に一度の開校日なのさ」
 君はイヌをそこまで好きじゃない。けれど、シューはイヌが好きだった。彼はぐちゃぐちゃ卵のサンドウィッチも好きだった。彼は日曜日も好きだ。そして恐らく、シューは学校も好きなのだ。
 君とシューの共通点は、朝に並んでNHKを見ることと、兄妹であること。それだけだ。
「ねえ、ハナ。今度の日曜日、雨が降らなかったら、僕と一緒に学校へ行こう」
 君は、五分間考えてから、頷いた。
 朝ごはんがバナナのサンドウィッチだったらね、と言った。

 ところが実際、日曜日は雨が降り、イヌのガッコウセイフクはその週、行われない。

   *  *  *

 君がどうして学校を嫌いになったのか。そのスタートはやはり雨だ。
 君は元から雨が好きじゃなかった。シューと一緒に登校できなくなってから、君は雨が大嫌いになった。大嫌い、と君は言った。それは君にとっての日曜日や、甘いものと同じぐらいの大嫌いだ。つまり本当に心の底から、の、大嫌い。
 甘いもの。君は甘いものも大嫌いだった。けれどバナナは好きだった。矛盾してる、とよくシューは笑った。どうしてバナナだけはオーケーなのさ。君はNHKだからだと答えた。NHKでバナナは健康にいいと言っていたから。だからバナナは特別で、バナナのサンドウィッチはもっと特別。
 またNHKか、とシューは言う。またハナはNHKだ。
 シューはフジテレビ、だとかメーテレ、だとかが好きだった。NHKなんてダサイよ、と彼は言った。それは彼にとってイカしていない。だからシューはNHKがそれほど好きではない。親に禁止されているはずのフジテレビ、だとかメーテレ、だとかをシューは君の前でこっそり付ける。君がNHKを見ている前で、ブチ、と彼は番組を変えてしまう。
 親に否定されているテレビは、君にとってささやかな恐怖だ。
 その日もシューが番組を変えた。ぽっちゃりとしたお姉さんが消えて、変わりに巨乳のアイドルが現れた。イヒヒ、とシューは笑った。笑いながら、ハナそろそろ学校行く時間だろ、と言った。そういう時、君はシューが嫌いだった。大嫌いと同じぐらい、嫌いだった。
「いってきます」
 ずどん、と重いランドセルを背負って、君は外に出る。ネコの刺繍が付いた、お気に入りの傘を広げる。誕生日にシューがくれた、安物の傘。ネコだから、とシューは言った。ネコだからハナで、ハナだからネコなんだよ。
 雨に濡れるのはネコだけなのが、君には不思議で仕方ない。君はできることなら、ネコと一緒に濡れたかった。傘の運命を君は考えた。傘の運命というのは、つまり、びしょぬれになること、なのだ。それだけのために、傘は小さく生き続ける。だとすれば君は恵まれていた。少なくとも、君はびしょぬれになるためだけに、生きているのではない。
 君は、ネコを広げた。
 そして見た。
 ネコの絶命。

   *  *  *

 君の目の前で死んだネコは黒色だった。ぐちゃあ、とした黒色だった。それはどこか、あのぐちゃぐちゃ卵に似ていて、サンドウィッチ、と君は咄嗟に思う。これ、サンドウィッチ? うそ、うそうそ。
 サンドウィッチ、サンドウィッチと叫びながら、君は家に戻った。そこにはまだシューがいた。君の大嫌いなシューがいた。ハナ、どうしたの、とシューは君に訊く。君は混乱したまま、サンドウィッチ、と言った。ネコ、と言って、ぶるりと震えた。
「ネコ、ひかれたの。ひかれてるの、たまご、みたいに」
 シューは唐突に立ち上がった。そこにはもう、君の好きなシューがいた。テレビから抜け出してきたシューは、君の頼れる兄貴だ。あとはシューに任せればいい、と君は思って、安心する。卵みたいなネコのことを思う。ネコを轢いたトラックの運転手を恨む。短髪だったか、長髪だったか、それも覚えていない。ただ、少なくともそれは、ニンゲンだった。ニンゲンで、オトコで、醜かった。
 ぐちゃぐちゃネコは、君とシューとで、庭の片隅に埋めた。
 丸い石に、墓標を書いた。君が、ヘタクソな字と、覚え立ての漢字を使った。ギシギシ、と君は書く。ガシガシ、と君は書く。言葉はシューが考えた。ハナ、上手、とシューは褒めた。ネコ、喜ぶよ、きっと。
 そうして、君には家族が増えた。それは、死体の家族だ。死体で、人間じゃない、家族だ。それはネコだ。
 黒猫、ココニ永眠ス。

 その翌日から、君は学校に行けなくなる。
 サンドウィッチは食べられるのに、学校へは、行けなくなる。

   *  *  *

 ネコにはイヌがよく利くのだ。
「来週の日曜日は、学校へ行こうね」
 そしてイヌを見るんだ、とシューは言った。
 イヌのガッコウセイフクを見るんだ、とシューは言った。
「それはとてもイカすんだよ」フジテレビを見ながら、シューは笑う。「とても、ね。イカすんだ」

  *  *  *

 そして来週の日曜日、つまり、今週の日曜日。雨は降らない。
 バナナのサンドウィッチが出て、君はついに決意する。
 学校へ行くべきだ、と、君の頭の中で、例えばあの、醜いニンゲンの運転手が、君をざわりとそそのかす。

  *  *  *

 君は夢の中でイヌとネコのことを考えた。イヌとネコの、類似点について考えた。
 君はあまりものを知らない。何せ、君はまだ十歳だ。だから君にとって、イヌとネコというのは限りなく近い種類の動物だった。それは君とシューの関係に似ている。例えば彼らは同じ小動物であるが、彼らはニンゲンではありえない。鳴き方も餌も、飼われ方も違う。イヌはドッグフードを食べ、ネコはキャットフードを食べる。
 そして君は、バナナのサンドウィッチを食べる。
 ニンゲンは何でも食べる。君のナンデモ、は、今朝、サンドウィッチである。
「スタート・ラインを引くべきなんだよ。学校に行くためにはさ」
 シューはそう言って、君の玄関の前に線を引いた。木の枝で書かれた、歪んだ直線。ここから出たらスタートだ、とシューは君に教えた。これがハナのスタート・ラインなんだよ。君は地面を見る。直線は続いている。君の狭い視界より、更に向こうへ。
 直線は、ネコに、続いている。死んだ家族に続いている。
 今日ハ降水確率ゼロパーセント。君はそう呟きながら、スタート・ラインを越える。
 肩に背負った赤色のランドセルが、ガタゴトと揺れる。ランドセルの中にはドッグフードが入っている。いれたのはシューだ。イヌはサンドウィッチを食べない、イヌに必要なのはドッグフードだ。それはCMで宣伝されていたドッグフードで、しかもそれは、ツメカエヨウ。
 NHKにCMは流れない。君は、それを思い出す。ブルリ、と震える。
「行こうか」
 制服姿のシューが、君の手を掴んだ。湿気のこもった手が、君を包んだ。
 今日ハ降水確率ゼロパーセント。傘はいらない、と少しだけ痩せたお姉さんが、喋る。
 今日はネコの休日なんだね、と君は独りごとを言った。ネコの休日。それは、乾かすために使われる。乾かすためだけの休日。びしょぬれネコ、お休み。ずぶぬれネコ、お休み。
 それもネコの運命だ。
 そして君は、イヌの運命に立ち会う。

   *  *  *

 ガッコウセイフクはすでに始まっていた。君が到着した時には、もう、イヌたちは学校を支配していた。
 ワォンワォンワォンワォンワォン。
 数十頭のイヌが、校門の前に集まっていた。君はイヌの種類を知らない。けれど、君は色を知っている。茶、黒、白、灰、赤、金。毛並みの色で、君は種類を数えた。それだけでイヌは学校を征服していた。君は勝敗をつける。学校はイヌの種類と数に、明らかに、負けている。
 ワォンワォンワォンワォンワォン。
「わぉん」
 シューが合唱に混じる。
「わぉ、ん」
 君も合唱に混じる。
「わぉんわぉんわぉんわぉんわぉん」
 ニンゲンが合唱に混じる。ソプラノがふたつ。イヌたちはテノールだった。ニンゲンとイヌの合唱は、だから、よく響いた。綺麗かもしれない、と君は思う。綺麗なはずだ、と君は思う。君はイヌの歌を認めた。そして、君はイヌに、認めてもらいたいと願った。切実に、願った。
「カッコイイでしょ」
 イヌたちの真ん中に、ニンゲンがいる。そのニンゲンは合唱に混じっていない。そのニンゲンは歌わない。けれど、そのニンゲンは少年だ。少年で、制服だ。
 その少年は、ドッグフードの袋を抱えている。ふたつ。
 それは、CMで宣伝されていないドッグフードだ。
「餌をばら撒くと、寄ってくるんだ。こいつらは鼻がいいからね。むだにいいんだよ、とても、むだにね」
 少年は、袋を逆さまにする。ザアア、とドッグフードがこぼれる。ザアアアア、とドックフードが降る。雨のようなドッグフードに、イヌが群がる。雨を求めるイヌたち。彼らは望んでびしょぬれになる。その事実に、君はしばらく呆然とする。ほとんど意識のないまま、イヌを眺める。
 ワォンワォンワォンワォンワォン。
 クラクションの音に似ている、と君は思った。醜いニンゲンも、あの時、クラクションを鳴らした。
「ハナ、ランドセル」
 ドックフード、とシューが言う。君が慌ててパカリ、とドッグフードを取り出すと、少年は笑った。イイね、と彼は言った。キミたち、イイね。
「開けてごらんよ」
 君は言われたとおり、ドッグフードを開ける。ツメカエヨウの匂い、に、イヌが寄ってくる。ワォン、クォン。イヌがドッグフードを見分ける。イヌたちが、君のドッグフードを見分ける。君は少しだけ脅えながら、呟く。口の中で小さく、呟く。イヌはそれを聴く。イヌたちだけが、それを聴き取る。
 降水確率ニジュッパーセント。
 君は、雨を降らせた。イヌたちに。
 びしょぬれを求める、色とりどりの、イヌたちに。
 君の膝小僧を、背の高いハスキーが、ペロリ、と舐める。

   *  *  *

 スタート・ラインは消去された。君の手によって、それは崩壊した。代わりに君は、ドッグフードを買う。宣伝されていないドッグフードを、君は何袋も買ってくる。君の家にイヌはいない。君の家には、ぐちゃぐちゃネコの死体はあるが、イヌはいない。ぐちゃぐちゃイヌもいない。
 だから君は雨の降っていない日曜日、毎回、学校に出かけた。ドッグフードを消費するために、君は学校へ行った。ランドセルに出来る限りの袋を詰めた。大抵それは二袋だった。ニ袋で、限界。
 バナナのサンドウィッチじゃない日だって、君は出かけた。
 そのうち、シューはもう同行しない。飽きたよ、とシューは言う。ハナ、馬鹿らしいよ、と言う。君はそんなシューを見捨てた。やはりシューはNHK以外を見て、ゲラゲラ、笑う。そんなシューより、君はイヌの少年を好きになる。イヌたちの、中心にいる彼に会うため、君は、日曜日に学校へ行く。お休みを覆して、君は行く。
 君と少年は、だんだんと仲良くなる。イヌたちがそれを見ている。イヌたちの真ん中、ワォンワォンの真ん中で、君たちは恋をする。小さな恋だ。駆け出しの恋だ。だがイヌたちにとって、それはニンゲンの奇妙なじゃれ合いだった。イヌは小首をかしげ、君と、少年を見ていた。いつも、見ながら、ガツガツ食った。ゴツゴツ食った。
 君と少年のドッグフードは、もう、同じだ。それらは溶融している。ドッグフードは、繋がっている。
「ねこがね、」
 君はそう切り出した。
「ねこがね、ぐちゃぐちゃになったの」
 それから君は、少年にネコの話をした。それは君の家族の話であり、君の死体の話であり、君の心の話だった。少年と、そして恐らくイヌ、は、君の話に聴き入った。たくさんの耳が、声を聴いた。たくさんの鼓膜が、君を、受け入れた。ピン、と、イヌたちは耳を逆立てる。そして、君を包む。
「そう」
 と、イヌ代表の少年は、言う。
「それは、辛かった。ね」
 君は頷く。降水確率ハチジュッパーセント、と呟く。
 それは静かに、君の目から、降る。
 ワォンワォンワォンワォンワォン。
 イヌたちは必死で、君を慰めている。少なくとも、君は、そう思った。だから笑った。

 ヒャクパーセントのまま、君は、笑った。
 

 そして君はガッコウをセイフクする。
 君はイヌの一部になって、イヌと共に、ガッコウセイフクを果たす。

   *  *  *

 君は学校に行き始める。ランドセルの中から、ドッグフードを出す。代わりに君は、そこにキョウカショを詰めた。ギシギシ、と詰めた。悲鳴を上げるランドセルと反対に、親は君を、褒める。良かった、と安心する。安心して、親はサンドゥイッチを、また、作る。
 バナナのサンドウィッチは月に二回になる。
 シューは、イヌのおかげだね、と笑った。だから、イヌはいい。ね、ハナ、イヌはいいよ。
 君は決して、それに頷かない。うん、とは言わない。君にとってのイヌは重い。それは君にとっての家族と、死体と同じぐらい、重い。君はそこに重力を感じている。イヌはニンゲンの三倍ぐらいの重力、がある、と君は思う。
 だから君はイヌを否定した。嫌い、ではなく、否定した。君がイヌに会うのは日曜日だけだ。それ以外、君は路上でイヌを見かけても、無視する。そこにイヌがいないよう、振舞う。イヌは君を見て、ハテ、と言った。イヌは鼻がいい、イヌはドッグフードの匂いと、君の匂いが、分かる。
 イヌは、むだに鼻がいい。むだに、とても、いい。
 君はそんなイヌが好きだ。
 無視、の中に、君は精一杯の、愛を込める。
 愛。
「今日ノ降水確率ハナナジュッパーセント。傘ヲ持ッテ、オ出カケクダサイ」
 またぽっちゃりとしたお姉さんが、そう言って、君は、傘を握った。NHKはイカす、と君は思った。びしょぬれの運命を、彼らは阻止する。ぐちゃぐちゃニンゲン、を、彼らは阻止する。
「いってきます」
 ガクン、とランドセルを背負って、君は言う。
「行ってらっしゃい」 
 シューの声は、バサッ、にかき消される。君の手元で、雨の中で、傘が開く。
 びしょぬれネコは、君のために濡れる。

 消え残ったスタート・ラインを、君は、踏んだ。
 あるいは、飛んだ。
 飛び越えた。

fin
(2009.04.21)

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