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つきゴえ 真琴が外に出るのは、決まって月曜日の夜だった。 暗い霧が渦を巻く、しんと冷え切った夜闇の中で、真琴はパジャマ姿のままぼんやりと月を眺めていた。もしその夜、月が雲に覆い隠されていたとしても、真琴にとってそんな些細なことは大して関係がないらしい。時に道路の隅で、時に公園のブランコに乗って、また時には自室のベランダから、真琴は月を眺めた。日が沈んで太陽が休眠し、またむくりと起き上がって翌日の空を照らすまで、真琴はずっと外で月を見続けた。 だがその反面、真琴は月曜日の夜以外の時間は全て、壁に阻まれたアパートの、限られた空間の中で生活していた。昼も夜も関係なく、真琴にとっての日常はアパートの一室にしかなかった。学校にも行かず、遊びに出かけることもなく、真琴は常に室内で生きていた。親が外へ連れ出そうとしても一向に腰を上げず、真琴の幼馴染であり、唯一の友人ともいえるだろう俺が手を引っ張っても、彼女は一ミリだって動く気配がなかった。 だから、そんな真琴が自ら外出する毎週月曜日の夜は、彼女にとって何か特別な時間だったのに違いない。 真琴が引きこもりの生活を始めてから現在までの約一年半、彼女は月曜日と名づけられた日付の上に限っては、一日も欠かすことなく、外出をした。日頃から真琴の家に足を通わせている俺も、夜に一人で外をふらつくのは危ないという理由を建前にして、まるで当然のように、夜の散歩に付き添っていた。真琴の両親も、昔から面識のある俺が付いていてくれるならと渋々了解して、彼女の徘徊については口を出さずにいる。 「ねー、よジくん」 真琴の声は、一言で言うと、枯れていた。一度聴いただけでは、あまり女性の声だとは思われにくい。だからといって、男のように低音なのとも違うし、ハスキーと表現するのも少々誇張しすぎている。真琴の喉から出される声は、干上がった砂漠の中にしおれ立つ細木のように、ガラガラで、しゃがれていた。実際、俺のことを「芳くん」と呼ぶ真琴の声も、周囲の耳には「よジくん」と聴こえる。 この生まれつきの声帯のせいで、真琴は引きこもりなのだというカウンセラーも多くいたし、大抵の者はそう解釈しているようだった。が、果たして彼女と多くの時間を共有している俺でさえも、その真意は分からない。ただ、真琴がまだ学校に通っていた頃、人前で喋ることをめったにしない寡黙なキャラクターを演じていたのは、事実だった。 けれど、少なくとも真琴は、俺と喋る時にはしなびた声を痙攣のように震わせて、けらけらと無邪気に笑った。自らの干上がった声の中に、わずかな水でも差すように感情を滲ませ、言葉を喋った。 他人の鼓膜をゾクリと総毛だたせるような真琴の声を、俺はいつも拾っていた。 「月の光にはね、マホウがあるんだよ」 冬も迫ってきたその日の月曜日、もう少しで日付が明日に変わる頃、俺と真琴は、誰もいないバス停のベンチに腰を降ろしていた。真琴は十時頃にやって来た俺の手を引いて外出し、何を思ったのか唐突に、このバス停の前で足を止めたのだ。真琴の夜の散歩について、俺は一度も口を出したことなんてないから、その日どこへ行って何を喋るか、全ては彼女の気紛れで決まっている。それが毎回寝巻きの、だらしない格好のままで行われることにも、俺は口を挟んだことはない。 「魔法?」 「そう、マホウ。ファンタぢぃ」 言いながら、真琴は両手を筒にして望遠鏡のようなものを作ってから、それを片目に当てて空を仰いだ。真琴のこうした、年齢にそぐわないおかしな行動は茶飯事だったから、俺も大して気にせずに、彼女と同じように夜空を眺める。 その日は昼から晴れていたのも手伝ってか雲もほとんどなく、黒いカーテンの向こう側で、真琴の求める半月が揺れていた。そこから溢れ出す光は、静寂に包まれた暗闇の中に注ぎ込まれ、街頭の明るさと溶け込むように、俺たちの周囲までもを照らしている。 あのね、と、真琴はレンズのない望遠鏡で月を観察しながら、シワシワの声を出した。 「月の光はね、女性の体を守るんダって。ウチューの引力で、月にも満ち潮と引き潮があるんだケどね、それと女性の生理は、密接なカンケイにあるんだってサ。月経って、月の経歴って書くでしょ、アレとおんなじ」 「ふぅん……」 俺は適当に相槌を返して、月に魅入る真琴の横顔にちらりと目をやった。いつの間にか彼女自製の望遠鏡は右目から左目に移っている。冷たい夜風が空気を切り、真琴の長い髪の毛をなびかせた。バスの来ないバス停、車の通らない道路、色のない空。遠くの方で響くうるさいバイクの悲鳴だけが、やけに現実的だった。 「だガらね」真琴はそう言った途端、ぱっと望遠鏡を壊して、俺の方に顔を向けた。 「女の子はみィんな、月の光を浴びた方がいいんだよ。女性にだけ、月のマホウがかかるからね。ヅまり、月の加護があルんだ。よジくんは男だから駄目、月に近いのは、いつの時代でも女性だからさ」 そう言ってやんわりと笑う真琴の顔は、普段は別に特別な美人というわけでもないのに、その時だけは妙な妖艶さがちらちらと垣間見えて、俺は少し心臓が鳴った。ニキビの目立つ真琴の見慣れた顔が、月のライトアップの下で瞬いている。 「真琴は」俺はふっと顔を逸らして、「月の光を浴びるために、月を見ているのか?」 「ンー、まあね、それもあルけど――月はさ、全部、知ってるガら」 何を、と俺は問い返す。真琴の顔が見れなくて、首も疲れてきた俺は、ずっと自分の膝の上に視線を這わせていた。終わりかけの秋の夜長は、寒い。月の光に何があろうと、太陽のように温かみをもっていないことは、特徴を通り越して欠点だと愚痴を吐きたくなった。 「知ってるんダよ。月は、夜の全てを見デる。日中は太陽に場所を奪われヂゃうけど、それでも、霞のかガった向こう側で、広がる世界を見下ろジてる。私ダちが月を知っているように、月は、私たちのことも、全部分ガってるんダよ。知ってるんだ。自分の照らす世界に、どんな人間が住んデるかって、月はぜーんぶ、覚えてる」 そこまで長く喋った真琴の語尾は、若干かすれていた。それでも彼女の語る言葉はしっかりとしていて雄弁だったし、俺はどんな声でも漏らすまいと、俯きながらも必死で、真琴の声を集めていた。 真琴は、つまりね、とのんびり続ける。 「私ダちが、月を見ているわけじゃ、ないの――」 ごくりと、真琴は喉を震わせて、その時だけはなぜだか一度も音の基調をずらすことなく、 「――月が、私たちを、見てるんだよ」 つきが、わたしたちを、みている。 真琴の言葉を胸中で繰り返し、俺はザワリと背筋を凍らせた。冷たい汗が、その真ん中をつうっと通っていくような、奇妙な心地がする。真琴の声はいつもの通りだったが、そこには何かの、決して動かない強い意思が、ずっしりと腰を下ろしているような気がした。 真琴を照らす月明かりだけが、彼女の体に染み込んでいる。真琴を照らす月明かりだけが、ほのかに赤く、燃えている。 「……よジくん、大丈夫?」 真琴が俺の顔を覗き込んで、不安に駆られた声を出した。真琴と初対面の人間であれば、恐らく彼女の感情の変化は、その干上がった声の中に見分けられないだろう。だが、俺にはそれが判る。判るからこそ、俺は真琴の、余計に水っ気のない暗鬱な声を、そこに含まれる感情を、覗きたくはない。 「ああ……ごめん」 大丈夫だよ、と俺が言うと、真琴はそれで安心したかのようにまた笑顔を浮かべて、ふうっと吐息をつきながら、ベンチの背に体をもたれた。彼女はそのまま黙ってしまい、俺の方からも無理をしてまで喋ろうという気力はなかったから、俺たちはしばらく夜の世界の礼儀に従って、緩やかな沈黙を辿った。 その日は、世界がほの白くなる前に、俺たちはそれぞれの家へ帰った。 結局、俺と真琴が眺める間中、月は夜空の真ん中で俺たちを見下ろし、乾いた冷笑を落としていた。 * * * また次週の月曜日である。例によって、夜の散歩は続く。 真琴はパジャマ姿、俺は薄着のティーシャツの上に分厚いコートを引っ掛けて、いつもの夜道を歩いていた。真琴は奇妙なリズムをつけながらたん、たんっと足音を響かせて軽快に先を行き、その何十センチか後ろを、俺がとぼとぼと付いていく。歩くたびに揺れる真琴の髪から、嗅ぎ慣れない香料がふわふわと飛び、俺の鼻腔をくすぐった。 その日、空に浮かぶ月は満月に近かったのだけれど、残念ながら今日は雲と厚い霧がかかっていて、月の実体はほとんど見えなかった。霧のフィルターに阻まれた光だけが、唯一の明かりとしてこぼれ出ている。だが、それほど薄い光だと、それはもう街路の蛍光灯に負けて、俺たちのところまでは全く届いていなかった。 「今日は月、見えないんダねぇ」 歩きながら、真琴がどことなく寂しそうな口調で、声を出した。それに頷き返した俺は、突然ふと気になって、前を歩く彼女に「なあ、真琴」と呼びかける。 「なに」 「真琴、前の月曜日にさ、月は俺たちを見てるって、そう言っただろ?」 確認すると、真琴は足を止めて振り返り、「ヴン」と濁った声で答えた。俺は真琴の横に並んでから、じゃあさ、と言葉を続ける。 「今日みたいな、雲がかかってて月が見えない日って、あるじゃん。そういう日、俺たちはどう頑張っても、月を眺めることはできない。でも、それじゃあそういう時、雲の向こう側にいる月の方は――俺たちを見ることが、できるのか?」 「あー、うん……」真琴は先ほどよりも静かに歩きを再開して、「でギるよ。できルと、思うよ」 「どうして? こっちから見れなくて向こうから見れないなんて、理不尽じゃないのか」 唇を尖らせると、真琴は「うヴん」と首を横へ振った。 「だって月は、視覚でものを見てるわゲじゃ、ないもの。月はね、人間の表面を見ているわけヂゃ、ないよ。月は視覚なんて使わヅに、直接、私たちの中身を見てる。皮も骨も通り越ジて、人間には絶対に見えナい奥底の部分を、見ているんだよ。だガら月には、雲なんて関係ない。中身と中身で見るのだかラ、視覚なんて、月にはいらないンだよ」 「物理的じゃない、ってことか」 「うん、月はね、抽象的だよ。幻想的。本来なら、私ダちの目では見えないものなンだよ。それが、月が私たちを見てルお返しに、ちゃんと視界に映ってる。月を見れるゴと、すでにその部分から、私たちはそれに守られてるんダ。怖いグらいに、包まれてる――恐ろしいグらいに、理解されている」 真琴はそこまで喋ると、喉が疲れたのか一つふぅと白い息を吐いて、少しぶるりと身を震わせた。辺りは空気がピンと張って冷たかったし、真琴の寝巻きの生地は、こんな夜道を出歩くには少々薄すぎる。 「真琴」 そう呼びかけながら、俺は羽織っていたトレンチコートを脱いで、「ほら」と真琴に手渡した。引きこもりの悪声少女は、目の前に差し出されたそれを見て、一度きょとんと目を丸くしてから、ぎこちない手つきでそれを受け取る。 「……あァ、あ、アり、ガと」 お礼の言葉は、おかしな緊張のかすれ具合と、オマケに奇妙な抑揚と吃音も手伝って、今日一番に酷い声だった。酷い声だったのに、俺にとっては、その一音一音が、鼓膜の裏側で何度も何度も、緩やかに響いた。 ありがとうでもアリガトヴでも、何が違うのだろうか。真琴は、自分の耳に響く枯れた声を自覚して、それが周囲に与える印象を、きちんと分かっている。誰の耳にも、自分の声が美しく伝わることがないと知っている真琴は、それでも懸命に、何かを伝えようとする。自分の声で、俺に喋る。 真琴のことを一番に理解しているのは、真琴自身なのだと思う。人間はどれだけ逃避しようと、結局は自分のことを、誰よりもよく知っている。そこを自覚するかしないかで、人間なんて百八十度も回転するのだ。 月が、真琴の言うようにどれほど多くのことを見下ろし、理解していようとも、関係がない。人間は月の光を浴びながら自分を求め、自分を理解してくれる誰かを求める。頭上に浮かぶ月など見向きもせずに走り、その末に躓いて転んだ者だけが、その場になってようやく自分を見つめる丸い衛星に気付く。こちらを嘲る圧倒的な存在に、現実から切り離されて、吸い込まれる。 なら、真琴はすでに――吸い込まれて、いるのだろう。躓いて、転んで、夜空の月に魅入られた。自分の干上がった声を、自分のおかしな部分を全て分かってくれるのは月だけだと、真琴はそう解釈しているのかもしれない。 だからこそ、「月」曜日に彼女は夜を眺め、そこに輝く「月」を求めた。 真琴は、自分のことを分かりすぎた。 「なあ、真琴」 言いながら、俺はゆっくりと空を仰ぐ。何本もの細い生糸が重なって淀んだ上空を覆い隠しているかのように、その景色はおぼろげで、掴みどころがなかった。風も音もほとんどないのに、冷気と人気のない閑散とした空気が弾け合って、周囲の街路樹をざわっと揺らし、鼓膜を叩かない切り詰めた旋律をわずかに形作っていた。 「そろそろ」飲み込む唾までもが、ひやりと冷たい。「帰ろう、よ」 言うと、真琴は「え?」と首をかしげた。俺が真琴に大して何かを主張することなんて、ほとんど初めてに近かったから、突然のことに彼女も戸惑ったのかもしれない。だが俺は、そんな真琴の反応にうろたえることなく、先を続けた。 「もう、十分だろ。月を見るなとは言わないけど、月曜日の夜だけって習慣は、なくした方がいい。おばさんたちだって心配してるし、ちゃんと学校にも来て、昼中の外の空気も吸ってさぁ――月がなくても、見てなくても、大丈夫、だから」 俺の声は、説得という言葉とは程遠い、ほとんど独り言のような呟きだった。何の根拠も主張もない俺のつまらない音声は、真琴と違って安定しているはずなのに、彼女ほどの必死さや懸命さは何ひとつ感じられなくて、俺はそんな自分の声紋が嫌になる。真琴の持っている何かが、俺にはない。 「もう、戻ろう。帰ろうよ。……帰って、来ようよ」 月のない世界にだって、彼女は生きられるのだと、俺は貧弱な声でそう伝えたかった。何も心配することはないのだと、彼女にそう言いたかった。夜の散歩はもう飽き飽きだったし、何しろ、いつも真琴の隣りに寄り添っているのに、実際には何の役にも立っていない自分に、ほとほと嫌気が差した。 真琴が、俺の前で笑ってくれる理由を、そこに含まれたシワシワの叫びを、俺は見逃し続けている。 「……ヴん」 真琴は数秒の無言のあとに、そう答えた。彼女は俺のぶかぶかのコートの中に、長い髪の毛の先まですっぽりと包み込まれて、下を向いている。だから、俺の位置から、今真琴がどのような表情をしているのかは、全く分からなかった。分からないから、俺はそっぽを向いた。 月は、今の真琴の表情をまでもを、分かっているのだろうかと、俺はふと思う。だとしたら、それは不公平で、ずるい。人間には越えられない壁を容易く越えてしまう月は、卑怯だ。 「よジくん」 コートの隙間から、声が響く。かと思うと、突然に真琴はそのコートからひょいっと頭を出して、横で佇む俺の方に顔を向けた。その表情は、笑顔だった。唇の端だけは上がっているのに、目尻は何かの寂しさをちらちらと覗かせた、奇妙な微笑だった。 「――あり、がとう」 そう言った真琴の瞳は、若干、何かの光に照らされているように思えた。月の影が、薄く輝く何かが、そこには確かに映っていた。雲の向こうに見えない月が、俺の視界の中でその時、真琴の瞳の中に現れたのだ。 目の前で、序々に消えて行く笑顔を眺めながら、まるで彼女の瞳に浮かんだその光の中に、微笑みまで吸い込まれていくかのような消失を眺めながら、俺は、何だか無償に、泣きたくなった。 彼女の声が聴こえない月は、俺たちを見降ろし、笑っている。 彼女の声が聴こえる俺は、彼女の顔も見れず、何の言葉も返せないままに、コートの裾から覗く小さな手を、強く握った。 fin (2008.11.21) |